【序】
「8月やあれやこれやと腹の立つ」(生田比呂志)。腹が立つことばかりでなく、一枝さんの退院(8月23日)もあり、猛暑ばかりでなく感謝すべきことも、多くありました。神は「一歩一歩」(詩篇37:23)を定め守られる。そのことを痛切に感じました。
【1】
今年は、宣教151年の年ですが、明治の初めと思います。三人揃って旅をする。今夜の泊まりは、ここで八方に聞こえるように「鶴屋善兵衛」と言うんだぞと、兄貴が教える。しかし、どこが鶴屋だかわからない。その一人が、鶴屋の看板の読めないことを白状する。すると、兄貴が啖呵をきる。「べら棒め、けえったら学校へゆけ」。
この学校という言葉も彼から聞くとき、文明の開化と聞こえます。相手は恐れ入って、「じゃあ、兄ィ、読んでくんねぇ」と言う。と「俺も読めない」。相手がまた言う。「じゃあ、東京へけえったら二人で学校へゆこう」。この「二人で学校へゆこう」は、庶民の健気らしさが溢れていて、嬉しくもあります。下町伝道をしたいと思います。
明治の初め、読み書きのできない無筆の人も多くあったと思う。しかし、読めなくても書けなくとも、聞くことには不自由しません。社会党の元十字架委員長の河上丈太郎さんは、父から聖書を読んでくれと頼まれ、「じっと聞く父が懐かしい」と語っております。イザヤ書など、読んだのかしらと、私は想像を逞しくします。
【2】
第二イザヤは、構成上40章から48章を前半として、49章以下を後半としますが、しかし、大きなつながりがあります。今日は前半の終わりとして、48章を読んでみたいと思います。1節から11節は、「それにもかかわらず」であります。ここは、「新しいこと」という主題に立ち戻っております。
1節から5節は、「かたくなな民」であります。「ヤコブの家よ、これに聞け」(1)。彼らは、「主の名をもって誓い、イスラエルの神の名を唱える」が、「まこともなく、恵みの業をすることもない」(1)。これはイスラエルに対する激しい批判であり、反省の促しであります。
6節から11節は、「苦しみの炉」です。「これから起こる新しいことを知らせよう」(6)。そして、イスラエルが、なぜ以前、これらの事を聞かされなかったのかという理由を8節で述べています。「お前は裏切りを重ねる者、生まれたときから背く者と呼ばれていることをわたしは知っていたから」(8)。
【3】
しかし、「わたしは、わたしの名のために怒りを抑え、お前を滅ぼさないようにした」(9)。また、神はその民を変えるために精錬された。しかし、銀などは出ない。そういうふうに、「頑固で、青銅の額」の者たちであります。それにもかかわらず、「わたし自身のために、わたしは事を起こす」(11)。ありがたいお言葉です。
第二区分の12節から16節は、「主の御手」であります。ここでは、もう一度クロス王に対する召しについて述べられています。「わたしは神、初めであり、また終わりであるもの」(12)。天地創造の神がイスラエルの側に立って、今一度イスラエルに呼びかけます。何を彼は聞くか。ヤーベェが召したクロス王の業についてです(14)。
クロス王はさきにヤーベェの「牧者」(44:28)、その「受膏者」と呼ばれたが、今は「主に愛される者」といわれています。その彼が「主の御旨をバビロンに行なう」(14)。これはクロス王のバビロン征服を意味します。以上のことをあらかじめ「告げた者があろうか」。ありませんし、「わたしが彼を呼んだ」(15)とあります。
【4】
16節はヤーベェが歴史を予告するのみならず、それを指導することを言っています。それゆえ、「わたしは初めから、ひそかに語ったことはない。事の起こるとき、わたしは常にそこにいる」(16)。ヤーベェなくして歴史の進展はありえないのです。「今、主である神はわたしを遣わし、その霊を与えてくださった」(16)。
今までの「わたし」はヤーベェを指しますが、このわたしは預言者(第二イザヤ)を言うのです。しかし、「主は、しもべと霊(聖霊)を遣わされた」という解釈もあります。つまり、しもべは一人で来られたのでなく、そのみ業を果たすために御霊の力を持って来られた。後の「主の僕」に結びつく解釈です。
12節から16節は、クロス王を起こし遣わしたのはわたし、つまり「神の主権」が述べられています。それを「神の御手」としました。終わりの17節から22節は、「捕囚解放の到来」であります。「イスラエルの聖なる神、あなたを贖う主はこう言われる」(17)。この文脈で、ヤーベェを「贖う主」と言われるのは適切です。
【5】
と言うのは、48章でクロス王への言及は終わり、「主の僕」へと移行するからであります。これから、主の僕第2、3、4と続くのであります。「わたしは主、わたしはあなたを教えて力をもたせ、あなたを導いて道を行かせる」(17)。真の宗教は正しい教義の上に立つものであります。正しい教理は必要であり、大切であります。18節〜19節で、預言者は民の歴史を振り返り、それが罪深いものであったことを嘆いています。
その罪のゆえに捕囚が訪れます。それは神の側の忠実さの欠如によるものでなく、神は度々警告をなさった。もし、イスラエルが神に従っていたら、彼らは平和を楽しむことができたであろう。「わたしの戒めに耳を傾けるなら」(18)で、あります。「あなたの子孫は砂のように」(19)は、アブラハム契約を反映しています。
「その名はわたしの前から、断たれることも滅ぼされることもない」(19)。イスラエルは全く滅ぼされてしまうのであろうか。その救いが彼らの行為によるのであれば、望みはない。彼らは、なお暗い時代を送らなければならないが、神は契約に忠実なお方であります。「バビロンから出よ」(20)。
【6】
これは、帰還の命令ではありません。バビロンとの絶縁の命令です。罪との絶縁であります。20節から22節は、48章全体の結語として、ヤーベェの救いに対する賛美が勧められています。「アルデアを逃げ去るがよい」。これは新しい秩序の第一歩です。それはメシヤの来臨によって頂点に達する。だから「喜びの声をもって」となります。
「地の果てまで響かせ、届かせよ」(20)。宣教は世界的であります。「地の果てまで」とあります。これは第二イザヤの特徴であります。「主は僕ヤコブを贖われた、と言え」(20)。実に素晴らしい言葉であります。「ヤコブの家よ、これに聞け」(1)。ヤコブの家は問題を多く抱えていたが、「これを贖われたと言え」とは、全く恩寵であります。
主による贖いは、エジプトからの救出の言葉で述べられています。民は乾いた地で渇かなかった。それは「岩から水が出る」からです。第2の出エジプトが、どんなに素晴らしいか。主は罪の囚われから救出をなさるのであります。「喜びの声を、地の果てまで響かせ、届かせよ」であります。
【7】
わたしの感想を述べて、説教の終わりとしたいと思います。それは、神の愛をセンチメンタルなものにする現代の風潮に対する批判であります。天地の創造主なる神が、「わたし自身が、わたしのために、わたしは事を起こす」。歴史に現れた偉大なる神の愛を、そのダイナミックな愛を、センチなものとして理解するのは誤ちであります。
一枝さんは病に伏し、わたし自身、倒れて頭を三針縫いました。8月22日、浦和東教会で予定されていた説教を、頭がふらふらしながら行いました。内容はともかく、一同はその姿に打たれたようであります。「これから起こる新しいことを知らせよう」(6)。わたしは「歴史に現れる神の愛」を信頼します。
年金をはじめ会計は、いっさい一枝さんに委せてきました。このことも私がこれから行います。これになれるまで2、3年はかかりましょう。一枝さんを支えて生活する、このためにさらに数年かかるでしょう。明治初期の庶民への働きかけにも似た「下町伝道」の使命等々。とてもセンチメンタルな気持ちでは立ちゆかないでしょう。10年は必要です。
【結】
「8月やあれやこれやと腹の立つ」。しかし「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる」(詩篇37:23)。私はかがんで生活しています。そうした暮らしであります。しかし、「主はうずくまっている人を起こされる」(詩篇146:8)。一緒に起こしていただきましょう。神に祈祷を献げます。
【祈り】
主イエス・キリストの父なる神、み名を賛美します。「わたしの栄光が汚されてよいであろうか」。今日、この言葉を聞かせていただきました。神の栄光を汚すイスラエルを、それにもかかわらず、ご自身のために、贖われる神の姿を今日は拝しました。歴史に現れる神の愛、それが自分たちにも注がれています。私はその愛に信頼を繋ぎます。混迷する政治の上に、うずくまる私たちの上に、「わたしは贖った」という福音の信仰の光を注いでください。み名によって祈ります。
アーメン!!