2010年09月05日

9月5日藤崎信師「わたし自身のために事を起こす」 イザヤ書48章1節〜22節

【序】
  「8月やあれやこれやと腹の立つ」(生田比呂志)。腹が立つことばかりでなく、一枝さんの退院(8月23日)もあり、猛暑ばかりでなく感謝すべきことも、多くありました。神は「一歩一歩」(詩篇37:23)を定め守られる。そのことを痛切に感じました。

【1】
  今年は、宣教151年の年ですが、明治の初めと思います。三人揃って旅をする。今夜の泊まりは、ここで八方に聞こえるように「鶴屋善兵衛」と言うんだぞと、兄貴が教える。しかし、どこが鶴屋だかわからない。その一人が、鶴屋の看板の読めないことを白状する。すると、兄貴が啖呵をきる。「べら棒め、けえったら学校へゆけ」。
  この学校という言葉も彼から聞くとき、文明の開化と聞こえます。相手は恐れ入って、「じゃあ、兄ィ、読んでくんねぇ」と言う。と「俺も読めない」。相手がまた言う。「じゃあ、東京へけえったら二人で学校へゆこう」。この「二人で学校へゆこう」は、庶民の健気らしさが溢れていて、嬉しくもあります。下町伝道をしたいと思います。
  明治の初め、読み書きのできない無筆の人も多くあったと思う。しかし、読めなくても書けなくとも、聞くことには不自由しません。社会党の元十字架委員長の河上丈太郎さんは、父から聖書を読んでくれと頼まれ、「じっと聞く父が懐かしい」と語っております。イザヤ書など、読んだのかしらと、私は想像を逞しくします。

【2】
  第二イザヤは、構成上40章から48章を前半として、49章以下を後半としますが、しかし、大きなつながりがあります。今日は前半の終わりとして、48章を読んでみたいと思います。1節から11節は、「それにもかかわらず」であります。ここは、「新しいこと」という主題に立ち戻っております。
  1節から5節は、「かたくなな民」であります。「ヤコブの家よ、これに聞け」(1)。彼らは、「主の名をもって誓い、イスラエルの神の名を唱える」が、「まこともなく、恵みの業をすることもない」(1)。これはイスラエルに対する激しい批判であり、反省の促しであります。
  6節から11節は、「苦しみの炉」です。「これから起こる新しいことを知らせよう」(6)。そして、イスラエルが、なぜ以前、これらの事を聞かされなかったのかという理由を8節で述べています。「お前は裏切りを重ねる者、生まれたときから背く者と呼ばれていることをわたしは知っていたから」(8)。

【3】
  しかし、「わたしは、わたしの名のために怒りを抑え、お前を滅ぼさないようにした」(9)。また、神はその民を変えるために精錬された。しかし、銀などは出ない。そういうふうに、「頑固で、青銅の額」の者たちであります。それにもかかわらず、「わたし自身のために、わたしは事を起こす」(11)。ありがたいお言葉です。
  第二区分の12節から16節は、「主の御手」であります。ここでは、もう一度クロス王に対する召しについて述べられています。「わたしは神、初めであり、また終わりであるもの」(12)。天地創造の神がイスラエルの側に立って、今一度イスラエルに呼びかけます。何を彼は聞くか。ヤーベェが召したクロス王の業についてです(14)。
  クロス王はさきにヤーベェの「牧者」(44:28)、その「受膏者」と呼ばれたが、今は「主に愛される者」といわれています。その彼が「主の御旨をバビロンに行なう」(14)。これはクロス王のバビロン征服を意味します。以上のことをあらかじめ「告げた者があろうか」。ありませんし、「わたしが彼を呼んだ」(15)とあります。

【4】
  16節はヤーベェが歴史を予告するのみならず、それを指導することを言っています。それゆえ、「わたしは初めから、ひそかに語ったことはない。事の起こるとき、わたしは常にそこにいる」(16)。ヤーベェなくして歴史の進展はありえないのです。「今、主である神はわたしを遣わし、その霊を与えてくださった」(16)。
  今までの「わたし」はヤーベェを指しますが、このわたしは預言者(第二イザヤ)を言うのです。しかし、「主は、しもべと霊(聖霊)を遣わされた」という解釈もあります。つまり、しもべは一人で来られたのでなく、そのみ業を果たすために御霊の力を持って来られた。後の「主の僕」に結びつく解釈です。
  12節から16節は、クロス王を起こし遣わしたのはわたし、つまり「神の主権」が述べられています。それを「神の御手」としました。終わりの17節から22節は、「捕囚解放の到来」であります。「イスラエルの聖なる神、あなたを贖う主はこう言われる」(17)。この文脈で、ヤーベェを「贖う主」と言われるのは適切です。

【5】
  と言うのは、48章でクロス王への言及は終わり、「主の僕」へと移行するからであります。これから、主の僕第2、3、4と続くのであります。「わたしは主、わたしはあなたを教えて力をもたせ、あなたを導いて道を行かせる」(17)。真の宗教は正しい教義の上に立つものであります。正しい教理は必要であり、大切であります。18節〜19節で、預言者は民の歴史を振り返り、それが罪深いものであったことを嘆いています。
  その罪のゆえに捕囚が訪れます。それは神の側の忠実さの欠如によるものでなく、神は度々警告をなさった。もし、イスラエルが神に従っていたら、彼らは平和を楽しむことができたであろう。「わたしの戒めに耳を傾けるなら」(18)で、あります。「あなたの子孫は砂のように」(19)は、アブラハム契約を反映しています。
  「その名はわたしの前から、断たれることも滅ぼされることもない」(19)。イスラエルは全く滅ぼされてしまうのであろうか。その救いが彼らの行為によるのであれば、望みはない。彼らは、なお暗い時代を送らなければならないが、神は契約に忠実なお方であります。「バビロンから出よ」(20)。

【6】
  これは、帰還の命令ではありません。バビロンとの絶縁の命令です。罪との絶縁であります。20節から22節は、48章全体の結語として、ヤーベェの救いに対する賛美が勧められています。「アルデアを逃げ去るがよい」。これは新しい秩序の第一歩です。それはメシヤの来臨によって頂点に達する。だから「喜びの声をもって」となります。
  「地の果てまで響かせ、届かせよ」(20)。宣教は世界的であります。「地の果てまで」とあります。これは第二イザヤの特徴であります。「主は僕ヤコブを贖われた、と言え」(20)。実に素晴らしい言葉であります。「ヤコブの家よ、これに聞け」(1)。ヤコブの家は問題を多く抱えていたが、「これを贖われたと言え」とは、全く恩寵であります。
  主による贖いは、エジプトからの救出の言葉で述べられています。民は乾いた地で渇かなかった。それは「岩から水が出る」からです。第2の出エジプトが、どんなに素晴らしいか。主は罪の囚われから救出をなさるのであります。「喜びの声を、地の果てまで響かせ、届かせよ」であります。

【7】
  わたしの感想を述べて、説教の終わりとしたいと思います。それは、神の愛をセンチメンタルなものにする現代の風潮に対する批判であります。天地の創造主なる神が、「わたし自身が、わたしのために、わたしは事を起こす」。歴史に現れた偉大なる神の愛を、そのダイナミックな愛を、センチなものとして理解するのは誤ちであります。
  一枝さんは病に伏し、わたし自身、倒れて頭を三針縫いました。8月22日、浦和東教会で予定されていた説教を、頭がふらふらしながら行いました。内容はともかく、一同はその姿に打たれたようであります。「これから起こる新しいことを知らせよう」(6)。わたしは「歴史に現れる神の愛」を信頼します。
  年金をはじめ会計は、いっさい一枝さんに委せてきました。このことも私がこれから行います。これになれるまで2、3年はかかりましょう。一枝さんを支えて生活する、このためにさらに数年かかるでしょう。明治初期の庶民への働きかけにも似た「下町伝道」の使命等々。とてもセンチメンタルな気持ちでは立ちゆかないでしょう。10年は必要です。

【結】
  「8月やあれやこれやと腹の立つ」。しかし「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる」(詩篇37:23)。私はかがんで生活しています。そうした暮らしであります。しかし、「主はうずくまっている人を起こされる」(詩篇146:8)。一緒に起こしていただきましょう。神に祈祷を献げます。

【祈り】
  主イエス・キリストの父なる神、み名を賛美します。「わたしの栄光が汚されてよいであろうか」。今日、この言葉を聞かせていただきました。神の栄光を汚すイスラエルを、それにもかかわらず、ご自身のために、贖われる神の姿を今日は拝しました。歴史に現れる神の愛、それが自分たちにも注がれています。私はその愛に信頼を繋ぎます。混迷する政治の上に、うずくまる私たちの上に、「わたしは贖った」という福音の信仰の光を注いでください。み名によって祈ります。
アーメン!!

ラベル:イザヤ
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2010年08月01日

8月1日藤崎信師「バビロンへの語りかけ」イザヤ書47章1節〜15節

【序】
  「夏が来れば思い出す はるかな尾瀬遠い空」(江間章子)。尾瀬に行かれた方も多いと思います。歌詞もよいが、中田喜直の曲もよいのではないでしょうか。今日の礼拝で初めておいでになった方もありましょう。また数回来たという人もおるでしょう。

【1】
  しかし、古い人にも新しい方にも、聖霊は同じように働くのであります。私たちがここに集まったというのは、驚きでありますが、それと共に、聖霊を受けるためでもあります。先ほど、交読文で、「わたしは主に望みをおき、御ことばを待ち望みます」(詩篇130:5)と、祈り合いました。
  御ことばとみ霊の導きを受けて、この暫くの時をご一緒に過ごさせていただきました。ゆっくりとした気持ちで、礼拝を守ってくださるようお勧めします。M.ルターは、「安らかに信頼していることにこそ力がある」(イザヤ書30:15)を特愛の聖句としていたのであります(内村鑑三所感集30頁)。
  文語訳で言いますと、「平穏(おだやか)にして依り頼まば力を得べしし」。静かにして自分にたよらず、神の行動を待つならば、あなたは力を得ます。すなわち、強くなるのです。静かにして、自由な気持ちでご一緒に礼拝をお献げしましょう。私は、皆様と一緒に礼拝を献げることを、待ちに待っていたのです。
  今、申したように、礼拝を献げることが、力なのであります。礼拝とは、神をおがむことであります。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)。これはイエス・キリストの御ことばです。礼拝を献げることが恵みであり、また力なのであります。
  私たちは、イザヤ書を今、読み続けております。先月は、「無力な偶像、偉大な神」(イザヤ書46章)を学びました。今朝は、「バビロンの滅亡」(47章)。そして、来月は「バビロンからの解放」(48章)を読むことになっております。さらに、49章は「しもべの第2の歌」であります。
  第一の歌は、42章1節から4節で、「しもべの歌」は4つあり、この4番目が頂点であります。この頂点53章こそ、「彼は悩みの人にして悲しみを知れり」。涙なくして読めないところであります。このようなところに向かって、私たちは、イザヤ書を読みついでおります。したがって、私は祝福がないとはあり得ないと思っております。

【3】
  今日は、ご一緒にイザヤ書47章1節から15節をお読みしました。「バビロンの滅亡」という個所であります。一見、読んでみて、何の感動も与えられないところであります。聖書の正しい読み方というものは、その一節を知るために前後の文脈を大切にする、ということが大切であります。
  その一節を知るために、その一章全体を読むことが、あるいは新約なり旧約聖書全体から、一つの節を知ることが肝要であります。つまり、全体から個に至るということであります。しかしまた、逆に個から全体を知ることも真理であります。ヨハネ3の16は、「聖書の富士山だ」と言うことも、正しいのであります。
  イザヤ書47章は、「身を低くして塵の中に座れ  おとめである、娘バビロンよ」(1)で始まっております。人々でなく、町そのものが呼び掛けられております。おとめとはベトゥラー(処女)であり、この町が長い間外国の侵入をまぬがれたことを示しております。「柔らかでぜいたくな娘と呼ばれることは二度とない」(1)。

【4】
  王座を離れて、「石臼を取って粉をひけ」(2)。これは奴隷女の仕事です(出エジプト11:5)。「ベールを脱ぎ、衣の裾をたくし上げ、すねをあらわにして川を渡れ」(2)。すねを出すとは、女性が川を渡るときの行為です。川を渡れとは、仕事のために毎日渡ることと思われます。「お前は裸にされ、恥はあらわになる」(3)。
  裸にされるのは姦淫の罪を犯した者に対する刑罰ですが(エレミヤ書13:26、27)、「凌辱」との解釈が多い。「わたしは報復し、ひとりも容赦しない」(3)。これは意味のとりにくい言葉で、したがって訳に異論が多くあります。「誰もわたしに逆らえない」(ウルガタ)、ベザ写本では、「見捨てる」であります。
  このように、バビロンは陥落するが、「わたしたちの贖い主、その御名は万軍の主、イスラエルの聖なる神」(4)と賛美されます。これは、主の民は贖われる、ということであります。世の王国(バビロン)を滅ぼす主権的力を持たれる方は、その民を贖う力を持っております。神は、贖い主・力ある神・聖なる方と三重の名で呼ばれています。

【5】
  5節以下15節までは、同じように、「バビロンの崩壊」が述べられています。「沈黙して座り、闇の中に入れ、娘カルデアよ。諸国の女王と呼ばれることは二度とない」(5)。このような告発を受ける理由は、「傲慢」ということであります。
  7節に、「わたしは永遠に女王だ、とお前は言い、何事も心に留めず、終わりの事を思わなかった」。終わりを思わない永遠が問題である、ということでしょう。この告発に続いて「審判」が告げられます。「快楽に浸り、安んじて座る女よ。その二つのことが一日のうちに、瞬く間にお前に起こり、子を失いやもめとなる」(9)。
  そして、10節〜12節は、「来るべき災い」であります。「お前は平然と悪事をし、『見ている者はない』と言っていた」(10)。だが、「思いもかけない時、突然、破滅がお前を襲う」(11)。そして、13節から15節は、「崩壊の様子」が描かれています。「見よ、彼らはわらにすぎず、火が彼らを焼き尽くす」(14)とあります。

【6】
  今日、学びましたことを、簡単にまとめてみます。1節から4節は、「神は審き主であるが、また贖い主である」。5節から15節は「歴史の主は誰かと問いかけ、ヤーヴェはあらゆる傲慢と自己過信を審かれる方である」ことが示されています。私は4節を中心に読ませていただいたのであります。
  教会は、「福音と平和」の証し人として立てられていると思います。福音とは、「あなたの罪を負ってイエスは死を遂げられた」ということであります。このよき知らせを聞いて、「信じます」という人々をキリスト者といいます。キリストの十字架は、完全な救いの出来事であります。しっかりと信じてください。
  あとは、その信仰を人生に移して、喜んで実行していくということであります。その実践は、人それぞれによって異なります。先週、ある人(萩原純一)の説教を聞きました。開成出身、千葉大の農学部を出て、東神大を卒業され、東北で伝道している方で、「わたしはぶどうの木、わが父は農夫である」を中心に語られました。

【7】
  語られたことを、二、三述べます。「わたしが嫌いな歌、それはあの『夏が来れば』です。絶対に人は入れてはいけないのに、どんどん入っていく」。「最近、引きこもりがあるが、『勘当』があれば、引きこもっていられない」。そして、「私たちの幸いは、よい人、よい家庭にあるのでなく、『神を知る』ことにあります。よけいなものは農夫である父が切り取ります」。こういう内容でした。
  幸いを一点に絞ったところが、素晴らしいと思いました。今日読みましたところに、「終わりを思わなかった」(7)とあります。菅直人首相は「攻める」のは上手だが、守りに入ったら全然駄目だという感じであります。「終わりを知らない」とは、神を知らないことであります。救いの完全を受け入れてもらいたいと思います。
  キリスト教も他宗教も、皆同じく神の審きのもとにあります。今日、私が知らされたことは、それであります。ですから、他宗教の人々でありましても、真剣に生きようとする人とは、私たちは共に歩むべきであります。「平和」の問題に、教会はしっかりと取り組まねばなりません。「われわれは死の中にある」と歌われています。

【結】
  だが、福音の声が再び立ち上がる。そして歌う。「死のただ中にあって、われわれは命の中にいる」(ルター)。天でもなく、地でもなく、パラダイスでもなく、端的に神の内にいるということであります。しかも、いつにあっても、代々に渡ってそうなのであります。私たちの贖い主、その御名は万軍の主、イスラエルの聖なる神に祈祷を献げます。
祈ります。

【祈り】
  主イエス・キリストの父なる神、御名を賛美します。プラトンは、哲学者の手に政治をゆだねることを理想としました。私たちはキリスト者の手にゆだねることを願います。菅首相に福音を伝える人を起こしてください。一枝さんが病気であります。「愛は嵐を見つめながら、揺らぎもせず、いつまでも、しっかりと立ち続ける燈台なのだ」(シェークスピア)。遠く離れて共に礼拝を献げる一枝姉妹の上に、主よ、憐れみの御手を垂れてください。
この祈りを主の御名を通して御前に献げます。
アーメン!!

ラベル:イザヤ
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2010年07月04日

7月4日藤崎信師「わたしの計画は必ず成る」イザヤ書46章1節〜13節

 

【序】
    今年も7月を迎えました。6月を反省し、新しい出発をしましょう。「別れ道」に立っています。私は、「世にあるキリスト者」に訴えたいと思います。それを、「イザヤ書を読む」という形で、述べたいと思います。皆様の上に、神の祝福を祈ります。

【1】
    今日ご一緒に交読した詩篇103篇に、「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」(2)、「主に造られたものはすべて、主をたたえよ。わたしの魂よ、主をたたえよ」(22)と、ありました。「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し」(3)とあります。感謝し、賛美を献げましょう。「わが魂よ」であります。
    皆様も、そうであったように、この6月に特記すべきことが、わたしにもありました。ひとつは6月2日の準備会のことであり、もう一つは21日の入院のことであります。「日立平和集会・平和行進」の準備の会で、「私たちが選んだ鳩山内閣を支えていこう」と言っているうちに、その辞任が伝えられました。
    非常に残念です。しかし、2日後に菅直人氏が代表に選ばれ、国会で首相として選任されました。「消費税は4年間上げない」(鳩山前首相)から、「消費税10パーセント」と菅首相は訴えます。果たして7月11日の参議院選挙でどうなるか。棄権の少ない民意のよく出る選挙となるよう希望します。
    6月19日は一枝姉妹の誕生日であり、しかも“米寿”であるというので、多くの方々から祝福をいただきました。高い所から、心からの感謝を捧げます。「ありがとうございました」。しかし、体調不良で21日、済生会栗橋病院に再入院し、現在に至っております。食欲が全然出ないのであります。
    しかも、数度の検査のため、ベッドの上には大きく「禁食」という標が掲げられています。胃から小腸にバイパス手術をする案も浮上していますが、私たちはステント挿入を望んでいます。あさっての10時に皆が呼ばれて、検査結果やその後のことを協議することになっております。お祈りください。
    彼女は、32キロの体重となり、歩行も困難であり、大変辛い日々でありますが、「今が人生で一番よい時だ」と、語っております。私も、「私たちを沈める者は決してない」と思っております。一枝さんに対する、今までにない深い理解が与えられています。彼女への愛を思い、告白したいと思っております。

【3】
    政治の上にも、またわが家庭の上にも、み心がなるよう、「山が動く」(マタイ21:21)ように祈っております。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)。主イエス・キリストが共にいてくださいます。この主の現臨こそ、唯一の希望であります。
    今朝は、前回に続きましてイザヤ書46章をお読みしました。非常によくまとめられた個所であります。1、2節を除いてすべては預言者を通しての神の発言であります。「ここに愛がある」。こういう発見をいただいて読むことが最上であると思います。新共同訳では、「バビロンの偶像」と表題されています。
    「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す」(1)。ベルもネボも、バビロンの神の代表者の名であります。次に、そのパレードが皮肉に描写されています。本来、守護神としてバビロンを守る神々の像が、むしろ重荷となって人々にのしかかっています。もはや、その重荷を解く力もなく、捕らわれていく運命にあると述べられています。

【4】
    3、4節は、対照的にヤコブ、イスラエルの民は、「生まれた時から」「胎を出た時」(3)から、神に担われ、それは「老いる日まで」「白髪になる」(4)まで、続くと約束されています。イスラエルを「背負われる神」が強調されています。「わたしはあなたたちを造った。わたしは担い、背負い、救い出す」(4)。
    人間は、赤子の時は母親に抱かれているが、成長すれば一人歩きをするようになる。しかし、神との関係では年老いるまで、白髪になるまで神に運ばれて行くのです。ここには、神の変わらぬ恵み、真実、力が述べられています。「人間は神に向けて造られています。神のみ懐に憩うまでは安らぎはない」(アウグスチヌス)。
    5節から11節では、偶像と神との比較がなされています。人間が造り出す無力な偶像と、世界の上に君臨なさる主権者である神が比べられています。5節は表現も内容も40:18、20とよく似ています。神と偶像とは比較になりません。第二イザヤの偶像論の四番目です(40:19、41:7、44:9)。

【5】
    偶像は職人によって造られ、動かぬものであります。「彼らはそれを肩に担ぎ、背負って行き」(7)。これは3、4節の繰り返しのようですが、偶像は人間がいなければ、動かないのです。それゆえ、危機があって助けを求めても救う力がないのは当然であります。「動けない」「助けない」「救えない」(7)。
    8節以下は、「しっかりせよ」との神のことばであります。第二イザヤは今一度、預言と歴史に照らしてヤーベの神たることを主張します。彼はまずイスラエルに対して、「背く者よ」と呼びかけ、「反省せよ」(8)と訴えます。偶像崇拝に誘われたこと、それを「思い起こし、力を出せ」(8)。男らしくせよ、であります。
    「思い起こせ、初めからのことを」(9)。大切なことは、イスラエルの過去の歴史を振り返ることであります。過去が未来を拓くのであります。そうすれば、主権者であり、全能である神のみ業を見ることができます。「わたしは神であり、わたしのような者はいない」(9)。第二イザヤの唯一神という主張であります。第二イザヤが、最も強くこのことを強調しています。

【6】
    未来のことは、神がすでに定めておられることの実現であります。それゆえ、神は事の始めに、事の終わりをお告げになることができます。「わたしは初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた」(10)。預言は神の主権性、全能性を示すものであります。
    ですから、預言を否定することは、神の主権性、全能性を否定することであります。「わたしの計画は必ず成り、わたしは望むことをすべて実行する」(10)。「東から猛禽を呼び出し」(11)。これは、ペルシャ王のクロスを指します。遠い国から彼を呼び出し、バビロンからの解放を、「必ず完成させる」(11)とあります。
    12、13節は、第二イザヤの“逆転の思想”がよく述べられています。「わたしに聞け、心のかたくなな者よ。恵みの業から遠く離れている者よ」(12)。かたくなな者に呼びかけられています。去年も頑固でしたが、今年も頑固ですね。そういう者に「わたしに聞け」と呼びかけられています。

【7】
    イエス・キリストは、「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなされ」(マタイ10:7)と、弟子たちの派遣に当たり、そう申しました。「わたしの恵みの業を、わたしは近く成し遂げる。もはや遠くない」(13)。第二イザヤの逆転の思想、「最も遠いものに、神は最も近くある」という、恩寵の喜びであります。
    1ヨハネ4:10に、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。一枝さんの「今が一番よいとの信仰」も、ここに由来します。イザヤ書46章3、4節は、「旧約の中でもっとも感動的な一段」(中沢洽樹)と申しております。担う神を賛美します。
    聖望キリスト教会も「別れ道」に立っております。「その道を歩み、魂に安らぎを得よ」(エレミヤ書6:16)。14年前、土地が与えられ会堂が建つと、誰が思ったでしょうか。私たちでなく、三位一体の神に栄光を帰しましょう。「わたしは造った。私が担い、背負い、救い出す」。「わたしの計画は必ず成る」という、神に栄光を帰しましょう。

【結】
    キリスト教も他宗教もすべて神の審きのもとにあります。誇るべきは、「最も遠くにあるものに、最も近くある神」であります。「誇る者は主を誇れ」(1コリント1:31)。隠れています主のもので、隠れたところで清く主を証し、熱心に伝道に励みましょう。
神に祈祷を献げます。

【祈り】
    主イエス・キリストの父なる神、み名を賛美します。今日も礼拝へと招いてくださいました。あなたは、私たちに望みをおいておられます。自分を見ずに、み顔を仰がせてください。「神は招き、愛は結ぶ」であります。政治も家庭も、そして教会も、「別れ道」に立っております。みことばに支えられ、「ここに愛がある」という信仰の生活と、その実を結ばせてください。菅内閣の上に特別のご指導をお願いします。心から祈ります。
この祈りを主のみ名を通して、み前にお献げします。
アーメン!!

 
ラベル:イザヤ
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2010年06月06日

6月6日藤崎信師「わたしを仰いで救いを得よ」イザヤ45:1〜25

 

【序】
  6月は、「ジューン・ブライド」。この月に結婚すると幸福になる、というおめでたい月であります。娘(るつ記)、妻(一枝)も共に6月が誕生月であります。CSに使命を感じて生きている、わが友熊田靖子さんの誕生日の月でもあります。さわやかな月であります。

【1】
  しかし、この数週間、私は「悲しみ」に包まれておりました。樋口信平著『イザヤ書3』(一粒社)を最近手にし、その巻末に、「このたび本書の著者・樋口信平先生は老人性結核のため、2007年3月10日にハワイ・コハラの病院で逝去されました」とありました。実は以前、私は彼から「隠退後はロスに住む」と挨拶を受けていたのであります。
  ご無沙汰をしているうちに、彼の死をこのような形で知らされ、驚くやら悲しむやらと辛い日々を過ごしております。信平氏とは4年間、一緒に神学校で学び、その後も暖かい交わりを受けました。『イザヤ書4』(イザヤ書40章以降)は、遺稿として出版されることが約束されています。
  彼は、イザヤ書の「註解」を、私は今イザヤ書の「説教」をしています。残れる者の責任と使命を感じております。悲しみが私を動かしております。「希望への扉は暗闇の谷を通ってしか開けない。神の栄光は暗闇に直面した者たちにだけ明らかになる」(G.E.ライト)。悲しみを愛していきたいと思います。

【2】
  本日は、ご一緒にイザヤ書45章をお読みしました。第二イザヤの45章は、「弱者への救い」であります。暗闇の中なる「捕囚の民」へのメッセージであります。「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」(マタイ5の4)。主イエスの優しいみ声を共に聴きたいと、思います。
  イザヤ書45章を三つに分けて、説明させていただきます。1〜8節は、「クロスについて」であります。しかし、内容は「創造の神」です。9〜17節は、「粘土と陶工」であります。その中に、「ご自分を隠される神」とあります。18〜25節は、「わたしを仰いで救いを得よ」。このように三つに分けます。
  「主が油を注がれた人クロスについて主がこう言われる」(1)。クロスは、「わたしの牧者」(44の28)と呼ばれるだけでなく、「受膏者」(油注がれた者)と言われています。旧約における受膏者は、「イスラエルの君」(サムエル記上24の6)、「終末的支配者」(詩篇2の2)等々の用例があります。

【3】
  第二イザヤの場合、異国の王に対して用いられているのは全く例外であり、それは世界史がイスラエルの神ヤーベによってのみ動かされているという、彼の偉大な歴史観の力強き表現に外なりません。クロスの登場は、全くヤーベの意志とその計画によると見なされています。驚くべき大胆な歴史観です。
  クロスの進軍するところ、一切の障害は破られます。それは、「わたしが彼の右の手を固く取った」(1)からであります。しかし、クロスはヤーベを知らない。けれど、ヤーベは「クロスの名を呼び」、彼を「イスラエルのために」(4)召した。これもまた、甚だ大胆な構想であります。
  そして、「わたしは光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者」(7)と述べられています。クロスのわざは実際には、この「光と闇」とを創造される主のみ業の別の一つであります。ここで預言者は賛美を献げます。「天よ、雲よ、恵みの御業が共に芽生えるように」(8)と、歌います。人生の終わりは賛美です。
  椎名麟三が、「おっかさん、何でこんな自分に生んだのか」と迫ったとき、母は「お前を猿や犬に生まなかったことを感謝せよ」と言ったそうです。凄い母ですね。しかし、考えてみれば、当たり前のことです。それを大胆に言ったことが、私たちを驚かすのであります。
  9〜17節は、「粘土と陶工」です。「土の器のかけらにすぎないのに、自分の造り主と争う者」(9)はいない。そのように神の主権を誰が否認しようとするのか。「大地を造り、その上に人間を創造したのはわたし」(12)とあります。異国の王が用いられることを、快く思わなかったイスラエルの人がおったのでしょう。
  「彼はわたしの都を再建し、報酬も賄賂も求めない」(13)。これは、クロスが何かの報償を得るために動いていると思うユダヤ人の誤解に対する反省の促しであります。当時のユダヤ人の小さく卑しい歴史観に対して、この預言者の高く大きい歴史観が見えます。それは異国の王に対する迎合ではなく、創造者の歴史的意志に対する深い信頼であります。

【5】
  14節以下は、「クロスのもとにアフリカの人も来て、『神は確かにあなたのうちにいます』と、神を告白する」というのであります。「まことにあなたはご自分を隠される神」(15)。クロスをその器として用いる神は、歴史に自己を現わすと共に、歴史から自己を隠す神でもあります。
  異邦人にとってヤーベは隠れた神ですが、イスラエル人にとっても彼らの悲運においては、神はその姿を隠しているように思われたのであります。しかし、今やヤーベの栄光が現れるべき時が来たのです(40の5)。神は隠れているがゆえに、異邦人は偶像をもって神を拜しようとするが、「皆共に恥を受け辱しめられる」(16)。
  18〜25節を、「わたしを仰いで救いを得よ」と、しました。クロスの使命に関する預言は一応終わり、再び創造者なる唯一の神ヤーベへの告白が始まります(18)。ヤーベは自分を隠す神であると共に、自分を現わす神であります。それゆえ、「わたしは隠れた所で、語ったことはない」(19)。
  これは、占いをもって陰府よりの神託を求め必要のないことを言います。「わたしは主、正義を語り、公平を告知する者」(19)。ヤーベの意志は決して不可解な恣意ではありません。正義、公平とはただ倫理的意味にとどまらず、ヤーベの啓示が率直なことであります。霊と真理とをもって神を拜する者には、必ず神は答えたもうのです(ヨハネ4:24)。
  以上のようなヤーベの啓示につき、異教の民はこれを熟考すべく呼び出されます(20)。「国々から逃れ来た者」は、クロスの諸国征服による神の審判から脱れて来た者を指し、帰還のユダヤ人ではないであろう。なぜならば「彼らは偶像を担ぐ者」だからであります。その偶像に何の力もないではないか。
  「意見を交わし、それを述べ、示せ。誰がこのことを昔から知らせたのか」(21)。「このこと」とは、クロスの世界史登場であります。偶像はそれを示さず、示したのはヤーベのみであった。ヤーベのみ「正しい神、救いを与える神は、わたしのほかにいない」(21)。それゆえ、「地の果てのすべての人々よ」と、呼びかけます。

【7】
  「わたしを仰いで、救いを得よ」(22)。偶像に向けられていた顔が、ヤーベに向けられねばならない。「そうすれば救われる」。単純なことです。以上のことは、「わたしが自分にかけて誓う」(23)ものであります。それは絶対に破棄されることはない。その理由は、「わたしの口から恵みのことばが出されたならば、そのことばは決して取り消されない」からであります。
  少年スポルジョンは、44章の22節に捕らわれます。見ることは子どもでもできる。そしてテキストを言いかえて、「わたしを見なさい、十字架にかけられているわたしを」、「死んで甦り、天に昇るわたしを見なさい」。説教者はやがて彼に直接語りかける。「君はまことにみじめそうに見える。そして生においても、死においても、このみことばに従わないからみじめである。しかし、今この瞬間、みことばに従いさえすれば、あなたは救われる。イエス・キリストを仰ぎ見よ、見るのだ、見るのだ、見て、生きる以外に君のすることは何もないのだ」。「私はたちまち救いの道を見出した」とスポルジョンは書いています。キリストに辿り着くまで、自分は満たされることはなかったのだ、と述べています。

【結】
  聖霊降臨日を迎えました。私の考えによると、「信徒の誕生」した日です。洗礼は聖霊降臨日につながり、奥が深いのです。甦りのイエス様は、聖霊様となって私たちに宿ります。

【祈り】
  アブラハム、イサク、ヤコブの神、イエス・キリストの父なる神、み名を賛美します。神が来られたのは、私たちを高めるためでなく、神ご自身を高めるためであります。どうか、われわれがなす一切が、神の栄光のためでありますように。私たちが、進んで十字架を負うとき、人の知らざる平安を得るのであります。神が、国のそして、わが人生の主導者であるとの歴史観を持たせてください。鳩山由紀夫から菅直人へと、どうかみ心がなるよう祝してください。み名によって祈ります。
アーメン!!

 
ラベル:イザヤ
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2010年04月04日

4月4日藤崎信師「わたしの目にあなたは価高く」イザヤ43章


【序】
  宮村武夫著作集(1)の『愛の業としての説教』を読むと、「説教は人を生かし、神のみ名を賛美させる」ものであると、書いてあります。「キリストは甦られた! ハレルヤ」。この言葉の中に、説教のすべてが込められています。「ハレルヤ。アーメン」と心を高くあげましょう。
  私の最も好きな言葉の一つは「喜び」です。その喜びは、キリストの甦りにあります。ドストエフスキーは小説『カラマーゾフの兄弟』の中で、一人の登場人物に「キリスト教は何よりも喜びの宗教である」と語らせていますが、これは聖書の素晴らしい解釈だと思っています。

【1】
  先週、私たちは、受難週報の早天祈祷会を守らせていただきました。恵みを受けましたが、おおげさに言うと、「死ぬ苦しみ」でした。朝、歩いて教会に行きますが、誰とも会いません。小鳥に挨拶するのみです。そのうち、私がお迎えに参りますと、助け合い、愛し合う早天祈祷会であったことを報告します。
  小説教は、森田弘道牧師が4回、私が2回という担当であります。その一つを「聖金曜日」に当てられました。私は森田牧師の譲歩、その謙虚さに心打たれた次第であります。それだけに責任の重さをずっしりと感じ、肉体的なものと共に、それ以上に精神的な苦痛のうちに祈祷会を守りました。
  進んで「痛み」を受ける。すると、その先に、「希望」の光が射し込んできます。痛みを愛するということは、人生を知り、聖書を知ることの大事なポイントの一つでありましょう。家で留守をする、そして帰ると、「今日の内容は」と尋ねる一枝さんと、身は離れていても、祈りにおいて一つである早天祈祷会を感謝します。聖望キリスト教会も、新会堂が出来たら、ぜひ受難週早天祈祷会を行なっていただきたいと思います。

【2】
  教会暦によって礼拝を守ることが、日本の教会に定着しつつあります。よいことであります。ですから、イースターにイザヤ書43章を読むことは、苦痛であります。しかし、聖書によって礼拝を守る。聖書が一番の聖書解釈であると信じます。とにかく、苦痛の中から、「愛の業としての説教」をさせていただきます。
  前回に続きまして、ご一緒にイザヤ書43章を輪読しました。一人ひとりの人格を通して、み言葉が聞かれます。私が聞いたものとして、次の3点について説明させていただきます。1節〜7節は「神の再創造」です。8節〜21節は「事を起こす神への信頼」、終わりの22節〜28節は「現実のイスラエル」であります。
  1節の前に、「されど今」という言葉が原文にあります。そもそも、イスラエルは神によって創造された民であります。この創造の神は贖いの神でもあります。「わたしはあなたを贖う」。確実な未来を言います。「名を呼ぶ」とは、深い関係を示す言葉であります。創造、救済のゆえに、イスラエルは守られています。

【3】
  ですから、どんな危険のなかにあっても安全であります。「水の中」、「火の中」を歩んでも心配はありません。なぜなら、ヤーベは「イスラエルの聖なる神、あなたの救い主」(3)であるからであります。捕囚の民を救い出すために、「エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代償とする」(3)。選民の救いが世界史スケールで考えられています。
  それは、ヤーベはイスラエルの運命を負うのみか、世界の歴史を動かす神であるからです。何故、イスラエルの救いが、このように世界史スケールにおいてなされるのか。それはイスラエルはヤーベの「目には価高く、貴い」(4)からであります。しかし、イスラエルのもつ価値によるのでなく、神の憐れみとその愛によるのであります。この4節の言葉を標題にしました。
  5節以下は、捕囚の民を連れ帰らせるので、「恐れるな」であります。「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者」(7)。これは礼拝する団体であるとの意味であります。イスラエルはヤーベのみを礼拝すべく創造されています。「わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者」(7)とあります。

【4】
  「恐れるな」(1節、5節)。第二イザヤでは再三再四くり返されます。神は地の四方の果てから彼らを来させ、その一人びとりをご自身の「栄光」のために、つまり、み名を世界に啓示し、これに栄光を帰するために創造した神の一員に任命されるのであります。再創造の目的は、ここにあります。
  8節〜15節は、「事を起こす神への信頼」であります。「引き出せ」(8)とあります。預言者の発言は、諸国民の会議に戻ります。神が裁判長、諸国が被告で、イスラエルは証人であります。「国々を一堂に集わせ、すべての民を集めよ」(9)。そして、「初めからのことを聞かせる者があろうか。証人を立てて述べられるか」(9)。
  「初めからのこと」とは、すでに起こったこと、すなわち過去の出来事であります。聞かせることは出来ない、と述べられています。諸国民の背後には彼らを導く神々がいる。第二イザヤは、異邦人の神々には歴史を創造し、形成する力がないことを風刺しています。イスラエルは、「目があっても、見えぬ民」(8)であります。

【5】
  しかし、盲者聾者である彼らが、神の光に照らされる時、彼らは歴史の証人となります。「わたしの証人はあなたたち、わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる」(10)。神の恵みの選びが先であり、それによって、「わたしを知り、信じ理解する」(10)が、伴うのであります。神を信頼し、イスラエルは歴史の証人として立てられていきます。
  11〜13節には、ヤーベのみが創造の主、イスラエルの救済者であることがくり返し語られています。ヤーベがその救いを行なう時、何物もこれを阻むことはできない。イスラエルの中に、ヤーベのほかに神がないことが強調されています。14節〜15節は、バビロン滅亡の序曲というものが述べられています。
  第3区分の16節〜28節までを、私は「イスラエルの現実」として受け止めます。ここは、第二イザヤとしては珍しく厳しい言葉に満ちています。16節〜21節は、「第2の出エジプト」であります。「昔のことを思いめぐらすな」(18)。信仰者の目は常に前を望むのであります。「見よ、新しいことをわたしは行なう」(19)。これは、クロスによるバビロンよりの解放であり、これが第2の出エジプトであります。

【6】
  その時、「野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる」(20)とあります。「わたしはこの民をわたしのために造った」(21)。造ったとは、救ったであります。イスラエルの存在理由は神を賛美し、神の栄光をあらわすことにあります。「彼らはわたしの栄誉を語らねばならない」(2)。私の言葉でいえば、強いられた恩寵であります。
  22節以下は、「イスラエルの罪」であります。「しかし、ヤコブよ、あなたはわたしを呼ばず」(22)、「わたしを敬おうとしなかった」(23)と、過去のことに言及します。「あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた」(24)。それが、神がイスラエルを滅びに渡した理由であります(28)。イスラエルの現実を思います。
  「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛す」(4)。この輝かしい言葉が、どのような民に語られたのでありましょうか。恐らく、いまだかつて経験したことがなく再び経験することがない有様で、故郷を失い、力を失っている時に語られたものであります。死の陰の只中に向かって、これらの言葉は語られています。

【7】
  ところで、これらの言葉は、私たちに関するものでありましょうか。第二イザヤの捕囚の中の言葉としては、私たちはあまりに幸福であり過ぎます。では、重病人、ひとやにある人、最も悲しんでいる人に妥当するのでしょうか。妥当しません。なぜなら、この輝かしい言葉と出会う人は、神に生きる希望以外をすべて放棄してしまった人だからであります。
  こういう人びとの中に、自分が属しているということを、知っているであろうか。私たちは答えることが出来ないし、答えようとも思いません。富んだ人、貧しい人、正しくない人びとのうち、誰がこれらの人びとに属しておるか。それを知る方は、ただ神のみであります。
  「わたしの目にあなたは価高く」と、今日も語られています。なぜ価高いのか。それは、目に見えるものだけでなく、存在しないものを創造する神の目以外にその根拠はありません。この根拠、この事実のうちに、慰めと誇りが見出されるということ、これらのことを私たちは真理の中に立つことになりましょう。

【結】
  主の甦りは、第2出エジプトを超える全く「新しい出来事」であります。旧約にひそむ新約に触れたい。創造の神、救済の神、そして復活の神。第二イザヤのあの世界史の大きなスケールの中で、イエスの復活を受け止め、復活信仰を喜び合いたいと思います。祈ります。

【祈り】
  アブラハム、イサク、ヤコブの神、イエス・キリストの父なる神、み名を賛美します。聖書を読むと、神は「イエスを甦らせた」とあります。その力と自由の前に、私たちは恥と苦しみを献げるばかりです。主の甦りによって、私たちすべてを天使たちよりも高くしてくださいました。それゆえ、賛美をささげます。「ハレルヤ、アーメン」。あなたの恵みの奇蹟をもって、今日も、また世の終わりまで、私たちのもとにとどまってください。み名によって祈ります。
アーメン!!

ラベル:イザヤ
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2010年03月07日

3月7日藤崎信師「傷ついた葦を折ることなく」イザヤ書42章1節〜25節

【序】
  今年は、お雛様を飾らずに3月3日を過ごしました。主婦が弱るという生活のほころびが如実であります。そういう中で、主の日の礼拝のたびに、主のご受難を知らされております。一昨日、熊谷のカトリック教会で「世界祈祷日」がもたれ、13教会の方々が参加しました。


【1】
  今年は、カメルーンの女性たちによるテキストに従って礼拝が守られ、アフリカを身近に感じさせられました。超教派で、世界の平和と伝道のために、一致して祈りが献げられたのであります。テキストの中で、イザヤ書42章10節〜17節が引用され、読まれたのでハッとしました。世界は一つの聖書を読んでいます。
  今日は、前回に続きまして、イザヤ書42章1節〜25節を読ませていただきました。生きているような光を放つみことばに触れることは、喜びであります。「旧約は新約にあらわれ、新約は旧約にひそむ」(アウグスチヌス)ということは、特に第二イザヤにおいて真理であります。
  イザヤ書42章を次の三つに分けて説明させていただきます。1節から9節は「主の僕」、10節から17節は「神の勝利」、18節から25節は「捕囚の解放」。この三区分であります。1節から5節を「主の僕」、6節から25節を「神の顕現」(中澤恰樹)という分け方もあります。私は、今申しました三分法によらせていただきます。

【2】
  「主の僕」(エベド)は、第二イザヤの大きなテーマであります。1節から9節は、「主の僕の召命」であります。「見よ」という天からの神のことばで始まります。「わたしが選び、喜び迎える者を」(1)とあります。主の僕は、神に選ばれ立てられた者であります。召命の自覚の大切さを覚えさせられます。
  今日風に言えば、礼拝に集う私たちは主の僕であります。私たちの先輩が、「神学校で説教の骨(コツ)を習ってこないで、いつまでも駄目である」と申します。説教の骨とは、「召命観の自覚」であります。それが確立していれば、必ずよい説教者になれます。ほかはよいのです。信徒も同じです。私たちは選ばれ立てられているのです。
  主の僕の生き方、その方法が次に述べられています。「彼は叫ばず、呼ばわらず」(2)、そして「傷ついた葦を折ることなく」(3)であります。葦はそれ自体が弱い植物であるから、傷がつけばすぐ折れてしまう。それを折れないようにするのは難しい。しかし、この方には、それをするいたわり深さがあります。


【3】
  マタイによる福音書12章を見ると、「イエスは皆の病気をいやして、ご自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、わたしの選んだ僕。彼は傷ついた葦を折らず、異邦人は彼の名に望みをかける』」(マタイ12章15節〜21節)とあります。
  まさに、「旧約は新約にあらわれ、新約は旧約にひそむ」であります。主の僕の召命、方法、そして使命で1節から9節が閉じられます。「創造者なる神」(5)が、「捕らわれ人をその枷から、牢獄から救い出す」(7)。この「新しいこと」(9)を、告げることが主の僕の使命であります。
  第二区分は、「神の勝利」であります。「新しい歌を主に向かって歌え」(10)。「喜び歌え」(11)とあります。それは、「主は、勇士のように出で立ち、敵を圧倒される」(13)からであります。カメルーンの女性たちが、自国の誇りを語りながら、またその問題点を訴える中で、この神の勝利に信頼して引用しています。


【4】
  「わたしは決して声を立てず、子を産む女のようにあえぎ」(14)とあります。しかし、時が来ると救いのみ業をなさるのであります。「行く手の闇を光に変え、曲がった道をまっすぐにする。わたしはこれらのことを成就させ、見捨てることはない」(16)。
  勝利者である神は、「見捨てることはない」と言明なさいます。カメルーンの女性たちが作ったテキストで、自国の問題を一つ一つあげながら、「見捨てないでください」とリフレーンしていることが印象に深く残っています。新しき歌とは、主の僕を通してなされる神のみ業への賛歌であります。
  五郎先生(父)に言わせると、「新しい歌とはキリストへの賛歌」となります。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる」(哀歌3:22、23)。キリストにある驚くべき恵みの新しさ。これを覚えて、賛美し、大きく感謝を献げましょう。


【5】
  第三区分の18節以下は、「捕囚の解放」であります。「耳の聞こえない人よ、聞け」(18)。「わたしの僕ほど目の見えない者があろうか」(19)。この僕はイスラエルであります。自分のために、自分を求めている自己中心のイスラエルは、耳があっても聞けません。「奪う者にヤコブを渡し、略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か」(24)。
  「それは主ではないか。この方にわたしたちは罪を犯した」(24)。神のために、神を求める信仰へと導かれるために、悔い改めが必要であります。しかし、「彼らは主の道を歩もうとせず、その教えに聞き従おうとしなかった」(24)。ここに預言者の悲哀があります。「捕囚からの解放」を信ぜず、聞かなかったのであります。
  今朝、私たちは一緒にイザヤ書42章をお読みしました。かって、神学校で火曜日にはチャペルがありました。そこでの教授たちの説教は素晴らしかったのであります。浅野順一先生がよれよれの服で、よれよれの聖書を開いて旧約の長い個所を読み、「これで説教は終わります」と、講壇から下りた姿が、今でも生き生きと甦ってくるのであります。


【6】
  期待はずれもはなはだしいと、思った方もあろうかと思います。牧会、伝道、教育、その一切を身に受けて、その困窮の中から神のことばを聞こうとするその態度、その姿勢そのものが、私には忘れ難い印象として脳裏に残っております。誰もまねの出来ないものであります。説教はまた、人でありましょう。
  今、私たちは受難節の中に立っております。教会は受難週へと、そして復活日をめざして歩んでおります。私たちは、よい人間、よい生活をしたい。よい説教を聞いて、納得できる人生を歩みたいと、思っております。一見それは正しい生活と見えますが、しかし、それは自分のために、自分を求めるという歩みではないでしょうか。
  その中にあって主イエスは、黙々として、神のために神を求めて十字架への道をたどられたのであります。主は正しい道を歩まれたのでありますが、皆がよってたかって主を十字架に押し上げたのであります。しかし、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12:32)と申されました。


【7】
  ご自分のことばを聞かず、矢を放つもの、それらすべてを、わたしが十字架に上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せようと、招いておられます。「主の十字架の恵みが究極の実在」(高倉徳太郎)であります。繰り返しになりますが、高齢者は体も頭も弱り、かつての理想は夢と砕けます。
  イザヤ書42章を読み感じることは、今日、いかに霊的に罪人となることを嫌っているかということであります。今日、交読文で、「わたしの肉にはまともなところもありません。骨にも安らぎがありません」(詩篇38:4)。そういう罪の自覚が、今日失わせておるのではないでしょうか。しかし、主の僕を通して神はお救いくださいます。
  弱い者の中の最も弱い者を、主は顧みてくださいます。弱い者は多くおります。しかし、その中で最も弱い者は「私」ではないでしょうか。その「傷ついた葦を折ることなく」、労り、救いたもう方が、「主の僕」、主イエス・キリストであります。罪赦された者は、神の栄光のために生きなければなりません。


【結】
  教会は、「福音と平和」の使者、証し人にならなければなりません。福音の信仰とは、神様がすべてをなしたもうという信仰であります。平和は、神との和解であります。和解者として人びとの間に、社会に立っていきましょう。「打って出て」いきましょう。神に祈祷を献げます。祈ります。


【祈り】
  アブラハム、イサク、ヤコブの神、イエス・キリストの父なる神、み名を賛美します。「傷ついた葦を折ることなく」と、生きているような光を放つみことばに触れさせていただきました。福音を魂に打ち込むことは、み心であります。神のために、神を求める。そういう気持ちで、イエスを慕い求めさせてください。人生最高の日、それは福音を新しく聞く日であります。今日、初めてという気持ちで、主を愛させてください。み名によって祈ります。
アーメン!!


 

ラベル:説教 イザヤ
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2010年02月07日

2月7日藤崎信師「新しい世界の胎動」イザヤ書41章1節〜29節

【序】
  「春は名のみの風の寒さよ」という季節になりました。ふとした折に女性の歌う、この合唱を聞くとき以上に、心が洗われ春への憧れを感じることはございません。しかし、聖書は「時代の季節」があることを教えます。どうか、そのことを教えてください。

【1】
  19世紀ロシアのある言語学者が、「読書とは神を敬う行為である」と、言いました。私たちは、聖書に親しんでおりますが、それがどれほど、「神を敬う行為」となっておるのでしょうか。「読書を聖別」しなければならないと、反省を迫られます。しかし、神が導いてくださると、神に信頼します。
    私たちは、今年から第二イザヤを読むように導かれております。現在のイザヤ書は歴史的文学としては第一イザヤ(1章〜39章)、第二イザヤ(40章〜55章)、第三イザヤ(56章〜66章)の三部に分かれます。しかし、そこに共通のものがあります。第一の主題は審判、第二は救贖、第三は栄光であり、それを一貫するものは、神の義であります。
    私たちは第一イザヤを学び終え、したがって次の第二イザヤへと進んだのであります。たまたまそうなったのか。そうではなく、見えざる神の導き(摂理)として、それを理解するか、そこに違いが生じます。問いをもつことは大切です。「問いは答えを決定する」ということも、大切な認識と思います。


【2】
  第一イザヤと第二イザヤの間に、「バビロン捕囚」という大きな事件があります。事件というより「亡国の悲哀」であります。預言者エレミヤの末期の時、またその捕囚の一員として預言者エゼキエルがおるという時代であります。紀元前587年、主だった人々はバビロンに捕虜として捕らえられていきます。
    その中にあって人々は、「神は隠れた」、「神は裁きを忘れた」(40:27)と、思っていたのであります。しかし、預言者の史眼には、少数であってもバビロンに捕らえ移された者の中に伝統が受け継がれると映じたのであります。今日は、ご一緒にイザヤ書41章1節〜29節までをお読みしました。
    41章においては、神が歴史の舞台に下り立ち、選民イスラエルの過去における救いと審きが、近い将来に起こるべき新しい救いと対比して感動的に述べられております。1節〜7節は「歴史の真の支配者」、8節〜20節は「救いの言葉」、21節〜29節は「法廷論争」。このように3区分して語らせていただきます。準備の足りない点はお赦しください。


【3】
  「島々よ、わたしのもとに来て静まれ」(1)。神は地中海沿岸の国々を、その法廷に召喚します。「進み出て悟れ」とあります。「東からふさわしい人を奮い立たせ、王たちを従わせたのは誰か」(2)。神の質問です。答えはペルシャのクロス王でありますが、その背景を見ることが大切であります。
    「この事を起こし、成し遂げたのは誰か。それは、主なるわたし(アニー)」(4)とあります。異国の王クロスを神の器と見る第二イザヤの神観、その歴史観の偉大さに注目させられます。「わたしは、初めであり後の代と共にいるもの」。永遠の実在であり、しかも常に人類の歴史に働かれるお方であります。
    「島々は畏れをもって仰ぎ、地の果てはおののき、共に近づいて来る」(5)。クロスによって呼び覚されたものは恐怖です。彼らは地の果てから寄りつどい、ペルシャ軍に対する対策を協議する。そこで、「彼らは助け合い、互いに励ましの声をかける」(6)となります。7節は、偶像を造り敵の進出を阻止しようとすることです。


【4】
  これは、まことに笑うべきことであり、ここに第二イザヤの嘲笑があり、風刺があります。このように1節〜7節は、ヤーベこそ、「歴史の真の支配者」であると、述べられております。第2区分の8節〜20節は、「救いの言葉」であります。「わたしの僕イスラエルよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ」(8)。
    バビロンにいる悩める者に、やさしく呼びかけます。ヤコブ書では、アブラハムは神の友と呼ばれています(2:23)。僕は主従の関係であるばかりでなく、友愛の関係、信頼の関係でもあります。「恐れることはない。わたしはあなたの神、勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手で支える」(10)。さびしく「どうして歌うことができようか、主のための歌を、異教の地で」と、詩篇137の4節にあります。神は民と共にあるのみならず、民を強くします。強くするとは、ヤーベの不動の意志を示します。


【5】
  また「見よ」と2度使われています。「見よ、わたしはあなたを打穀機とする」(15)。ここではクロスでなく、イスラエルが神の世界審判の道具となることが宣言されています。「山々を踏み砕き、丘をもみ殻とする」(15)。そこにバアル礼拝の聖所がありました。「主によって」(16)とあるように、イスラエルは道具であって、これを自分の力ではできません。
    17節〜20節は、もう一つの救いの言葉です。「苦しむ人、貧しい人は水を求めても得ず、渇きに舌は干上がる。主であるわたしが彼らに答えよう。イスラエルの神であるわたしは彼らを見捨てない」(17)。パレスチナやメソポタミアでは文字通り「生命の水」であります。昔、エジプトを出た時、渇きに苦しみました。
    今度、バビロンを出る時も同様でありましょう。しかし神は彼らを見殺しにしない。「不毛の高原に大河を開き、荒野を湖」(18)とする。そして、「荒野に緑を満たす」。この自然変貌のビジョンは、それは帰還に伴う恵みのしるしであります。神が助けをお与えになる時、現状は一変するのであります。


【6】
  20節は第2区分の結語であります。「彼らはこれを見て、悟り、互いに気づかせ、目覚めさせる。主の御手がこれを成し遂げ、イスラエルの聖なる神がこれを創造されたことを」(20)。神が救いをお与えになる目的は、人が神を真の神として知るようになるためです。「創造された」とは、この場合、救いについて言っております。
    救いは革命的な変化だからであります。第3区分の21節〜29節は、再び1節〜4節に返り、「法廷論争」であります。裁判官はヤーベであり、被告として召喚されている者は諸国民を代表する神々であります。「訴え出て、争うがよい、と主は言われる。お前たちの論拠を示せ、とヤコブの王は言われる」(21)。
    偶像は果たして「起こるべきこと」(22)を預言し得るか、不可能である。起こるべきことを預言し、これを実現するのはヤーベのみ。それは具体的にはクロスの世界登場を言います。今、イスラエルのみならず、全世界にこの真の神ヤーベを信じるや否や、それを問うております(23)。


【7】
    22節〜24節は、前節につづき、異邦の偶像が歴史を創造する力なく、これを理解する知識がないことを告げます。25節〜26節は、クロスの出現に対する預言であります。「ひとりとして告げた者はなく、聞かせた者もない」と繰り返して強調しています。「彼らはすべて無に等しく、業もむなしい」(29)で、歴史の法廷は幕を閉じます。次(次回)から「主の僕」に入ります。
    私の結論は、「歴史の真の支配者は神であり、わが人生の真の支配者も神である」ということであります。この神を絶対的に信じ、それ以外は絶対に信じない、ということであります。異教の王クロスを起こし、み旨をなす神。私たちが敵であり、おかしいと思うものまでも使い、み心を行なわれます。
    決して、自分の思いに固着してはなりません。一枝さんの病いに対しても、一方的な見方はいたしません。自分の思いにならない自我をも、神(ヤーベ)は尊くお用いになります。捕囚は悲劇でありますが、旧約聖書のp典(祭司典)は、その捕囚の中で編集されていきます。神様は決して無駄をなさいません。


【結】
  イザヤ書41章は、「新しい世界の胎動」を告げています。それを「時の徴(しるし)」と言います。私は8月15日(敗戦日)こそ、新しい日本の胎動だと思っております。敗北を抱きしめることに、日本国の世界への使命は生じると、信じます。神に祈祷を献げます。祈ります。


【祈り】
    主イエス・キリストの父なる神、み名を賛美します。あなたは、私たちを「わが僕イスラエルよ」と言って、イエス・キリストを信じる信仰によって、お救いくださいました。すべての人が自分自身との平和に到着しまして、歴史に働く神のご栄光を拝しますように。福音を伝える力を与えてください。また、鳩山内閣に力を与えてください。引退した朝青龍に慰めを与えてください。み名によって祈ります。

アーメン!!
 
ラベル:イザヤ
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2010年01月03日

2010年1月3日 藤崎信師「慰めよ。わが民を慰めよ」イザヤ書40:1〜31

【序】
  新年、明けましておめでとうございます。
昨年は祈りにおぼえていただきました。愛においてお支えをいただきました。深く感謝いたします。ありがとうございます。新しい一年、皆様と第二イザヤを学ぶことになっています。よろしくお願いいたします。共に主に従って参りましょう。

【1】
  今日は、ご一緒にイザヤ書40章1節から31節をお読みしました。イザヤ書40章から55章までを「第二イザヤ」と呼びます。第一イザヤと文体も時代も違い、離れています。著者は誰だかよくわかりません。しかし、第一イザヤの精神を継ぐ者であります。そのような訳で、これを「第二イザヤ」と命名し、呼んでおります。
  第二イザヤ書は、最も深い宗教的視点から、政治をはじめ人間の歴史と現実を見据えていると言うことができます。そのことを、これから、一年半をかけて学んでいきたいと、思います。統一性は、序曲(40章1節〜11節)と、終曲(55章1節〜13節)が見事に対応していることによって証明され、保証されています。
  イザヤ書40章を三つに分けて説明します。1節〜11節は「序曲」であります。内容は「帰還の約束」です。第二区分の12節〜26節は「無比なる神」であります。そして、第三区分の27節〜31節は、40章の「結語」であります。内容は「解答」であり、提起されたものが、再提起されています。そういう形をとっていると思います。

【2】
  「慰めよ。わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる」(1)。「慰めよ、慰めよ、わが民を」(直訳)。この一語に第二イザヤの使信は尽きています。なんと大きな言葉でしょうか。「エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた、と」(2)。
  苦役とは、過去に敵国から受けた苦難ですが、究極においてはヤハウェによるものであります。「咎」、「罪」の内容は具体的には述べられていませんが、ヤハウェとその民との契約の破れを表わす語であり、それらがすでに赦されていることが、第二イザヤの使信の出発点であります。審きでなく、赦しが出発点であり、中心であります。50年が過ぎ、民は不信仰の中に「わが民よ」と語りかけます。1、2節は全世界が聞くべき言葉であります。
  「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備えよ」(3)。荒れ野とは、捕囚地バビロンからエルサレムを隔てているシリアの砂漠です。捕囚者たちが無理やり連れていかれた道であります。敗北と屈辱の道が、しかし今や逆転され、そこに主の道が準備され、神が先頭に立ち、バビロンを出発し、エルサレムに帰ろうとしています。神は驚くべき仕方で到来します。これを覚えたい。

【3】
  預言者は再び、「呼びかけよ、との声」(6)を聞きます。「内なる者は皆、草に等しい。草は枯れ、花はしぼむ」(7)。イスラエルは敗戦と滅亡を経験し、いま捕囚地におります。これは自分たちの運命であると同時に、聖書の舞台を支配していた大国の運命でもありました。
  自分たちの小さな国も、強く見える大国も、それは一時的なもので、まことに脆いものだということです。しかし、「わたしたちの神のことばはとこしえに立つ」(8)。永遠なるものはヤハウェのことばのみであります。地上のあらゆる興亡の中に、神のことばのみが変わることなく、とこしえにある(詩篇103の15〜17)。
  「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振って声をあげよ」(9)。良い知らせとは、その内容はただ「見よ。主なる神」(10)であります。三回「見よ」とあります。10節では神が戦いに勝つ力強い姿で描かれていますが、11節では、その愛が羊飼いの例で示されております。力と共に、もう一面はやさしさであります。

【4】
  そのやさしさは、特に弱い命に対して示されています。病床にある妻一枝さんを思います。このイザヤの慰めの言葉に、深くいやされ、平安が与えられます。主は、わが飼い主、われは羊、みめぐみによりてすべて足れり、であります。第二区分の12節〜26節には「無比なる神」が述べられています。「手のひらにすくって海を量り、手の幅をもって天を測る者があろうか」(12)。到底できない。
  このようなことは、神以外に出来ない。その「ヤハウェの御前に、国々はすべて無に等しく、むなしくうつろなものと見なされる」(17)。そして、「お前たちは、神を誰に似せ、どのような像に仕立てようというのか」(18)と、質問しています。19、20節は「偶像崇拝」の愚かさを攻撃しております。「偶像は職人が鋳て造った」(19)とあります。
  第二イザヤは、偶像よりさらに一般的な問題を取り上げます。人間が神について語ろうとするが、神から直接、神に至る接点はありません。それ故、神の方から二つの場所を選んで、ご自身を人間に啓示するのであります。その一つは自然であり(21、22)、他は歴史(23〜24)であります。

【5】
  「他の基を置いた」(21)者は誰か。この預言者は、「知ろうとせず」、「聞こうとせず」、「理解(悟らない)しなかったのか」と、たたみかけて問いております。神こそ天地の創造者であります。次にヤハウェは「歴史の主」である、ということです。「主は君主たちを無に等しいものとし、地を治める者をうつろなものとされる」(23)。
  世界の歴史は絶えず変わります。アッシリヤ、エジプト、バビロンも決して永遠の存在ではありません。歴史を支配するのはヤハウェであります。「お前たちはわたしを誰に似せ、誰と比べようとするのか、と聖なる神は言われる」(25)。聖なる者とは、イザヤ書特有の言葉で、人間を超えた、無比なる神を言うのであります。
  「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ」(26)。創造(バーラー)、無よりの創造、これをなしうるのは神ヤハウェのみであります。異邦人は天体をもって、人間の運命を支配する神的な力として崇拝していたが、預言者はそれをもってヤハウェの栄光を現わすものと考えております。

【6】
  天体は、万軍の主なる王者ヤハウェの兵卒であり、その僕であります。「それらを数えて、引き出された方、それぞれの名を呼ばれる方の力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない」(26)。まことに主の力は激しく大であります。主は王者で、天体はその僕であります。第三区分の27節〜31節は、40章の結語に当たるものであります。
  40章は、1、2節の慰めの言葉を除いては、自然および歴史に関する第二イザヤの一般的な考察でありますが、この27節以下は、傷つき疲れたイスラエルに対する慰めと励ましとであります。第二イザヤは、真の信仰による希望と力とを強く訴えております。「わたしの道(運命)は主に隠されているのか」(27)。これは民の嘆声であります。
  捕囚の苦難はあまりに長くありました。ヤハウェは彼らの運命をかえりみず、その受くべき権利を忘れてしまったのではないか、というのであります。そのような嘆きの問いに、慰め、励ますのみならず、彼らを戒め、その反省を促すのであります。しかし、同胞を批判することなく、むしろ不信なる嘆声を積極的な信仰へと転換させようとしております。

【7】
  彼らの現在の苦境を打破させる力は何か。それは、敬虔なる待望であります。「主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主」(28)。この主を新たに思い起こすべきであります。特に地の果てはバビロンを指すと考えます。バビロンの辺境で苦しんでいる捕囚の民ひとりびとりを決して神は忘れていない。
  その無限の知恵と力をもって、今や救いの手を差し伸べている。目を開いて、来たらんとするその救いを、「待ち望む者は新たなる力を得る」(31)。「待ち望む」ことは、第一イザヤの時から神の民、特に「残りの者」の伝統的な姿勢であります(8の17)。「鷲のように」とは、神の力の象徴(出エジプト記19の4)であります。「走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(31)。
  かくして、「慰めよ」に始まる40章は、終わりもまたその基調を高くひびかせ、人生の旅路に喘ぐ者に霊感豊かな慰めを与えます。「新たなる力を得る」とは、力を交換する意味であって、人の力の代わりに神の力が交換されることをいうので、人間の無力は神の力に代わられ、弱さと疲れはいやされ、強くされるのであります。

【結】
  第二イザヤは捕囚民の一人で、虐げられた民の一員であったが、とこしえの神、天地の創造者を信じる信仰において、永遠の青年のごとく、大空の鷲のように、その若さと自由を失わなかったのであります。彼のごとく、その民もまたかくあれかしと、強く励ましの言葉をここに述べているのであります。
神に祈祷を捧げます。
祈ります。

【祈り】
  主イエス・キリストの父なる神、御名を賛美します。新春にあたり「神を見よ」とのことばを頂きました。創造と救済の神を見よ。それゆえ、私たちは「聖書の神を仰ぎ」心からお芽出度うということが許されています。感謝であります。「慰めの言葉」を頂きました。「主を待ち望む者は新たなる力を得る」。どうか、愛する羊飼いのふところに入り、人々を慰める使者となっていくよう、あなたが先頭に立って、導いてください。いと小さき一人を慰めることは、地域社会全部を慰めることであります。主よ、みことばに従わせてください。
み名によって祈ります。
アーメン!!

 
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2009年12月06日

12月6日 藤崎信師「使節の来訪とイザヤの答え」イザヤ書39:1〜8

 

【序】
  12月になりました。一年の終わりの月であり、また、今日は第一イザヤの終わりの章にきました。北の人たちの気持ちは、「目白籠吊るせばしなう冬木かな」(室生犀星)であります。小春日に日向に出して、木に吊すという豊かさであります。そういう気持ちが慌しい師走に欲しいものであります。

【1】
  しかし、私たちの心の豊かさは、「あなたの道を、主にまかせ、主にゆだねる」ところから来るものであります。ですから、主に一切をゆだねて、この現在の時を過ごさせていただきましょう。思いがけない悲しみを深く味わいながら、それだけに心から神の慰めを慕いつつ、ここに集わせていただいた人もおりましょう。私たちは、神の恵みのことばを等しく待ち望んでおります。
  今日は、ご一緒にイザヤ書39章を読ませていただきました。第一イザヤは、39章で終わりであります。終わりにしては、平凡ではないでしょうか。まして、私たちを驚かすものは何一つありません。「バビロン王、メロダク・バルアダンがヒゼキヤに手紙と贈り物を送って来た」(1)。この事から始まります。
  これは、病気の癒えた王を慶祝することでありました。小さな都市国家エルサレムの王は、自分に敬意が表されたと感じたはずであり、また喜んだはずであります。「ヒゼキヤは使者たちを歓迎し、あらゆる倉庫にある一切のものを彼らにみせた」(2)。このことは、いけなかったことでしょうか。「何たる見栄っ張りよ」ということでしょうか。

【2】
  表面上は病気回復の祝賀ですが、実際はヒゼキヤをセナンケリブ(アッシリヤ)に対する同盟に加えようと勧誘するためです。したがって「歓迎した」とは、ヒゼキヤが願っていたアッシリヤの支配からの自由を得る機会が到来したことを予想したからでしょう。外交は、複雑で難しいものであります。
  かねてアッシリヤに対する謀反に反対していたイザヤは、バビロンの使節に対するヒゼキヤの行為を聞いて黙することができず、直ちにヒゼキヤを訪ねたのであります。そして、ヒゼキヤの言葉を聞いて、「万軍の主のことばを聞きなさい。王宮にあるものが、ことごとくバビロンに運び去られる日が来る」(6)と告げたのであります。
  ヒゼキヤがバビロン王と同盟を結んだことは明言されていませんが、イザヤの言葉によって明らかであります。この政治的同盟が、ヒゼキヤにとって致命的な失敗であることを知ったイザヤは、ヒゼキヤに対して、彼がやがて受くべき刑罰としてバビロン捕囚を預言したのであります。

【3】
  そして最後に、「ヒゼキヤはイザヤに、『あなたが告げる主のことばはありがたいものです』と答えた。彼は、自分の在世中は平和と安定が続くと思っていた」(8)で、終わります。これは、刑罰が彼の死後にまで延期されることについて、自分の誤ちを認めると共に、神の憐れみを感謝したものであります。
  「主のことばはありがたい(結構です)」は、主のことばに対するヒゼキヤの服従を表しております。また「自分の在世中は」とは、自分だけが無事で、その子孫がどうなっても構わないという意味でなく、神の刑罰が延期された恩恵に対する感謝を表したものであります。
  刑罰を次代にまで延ばされることは、神の寛大な処置と考えられたからであります(列王上21の29、列王下22の18〜20)。「主のことばはありがたい」は、ヒゼキヤが預言者イザヤと同じ立場、同じ信仰に立っていたと、私は理解します。そして、捕囚に言及するこの終わりは、次のものに「開かれる」ということであります。

【4】
  つまり、イザヤ書40章は、捕囚からの解放を告げる「慰めよ」から始まります。第一イザヤを読み終わったのでありますが、私たちは3年にわたって教えられ、導かれてまいりました。その感想を二、三述べさせていただいて、説教の終わりにしたいと思います。想い出す言葉は「剣を打ち直して鋤とす」(2の4)です。
  「もはや戦うことを学ばない」であります。私の平和観はここにあります。また、「ひとりのみどりごが私たちのために生まれた」(9の5)。この預言観、そして、「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(9の6)という主の熱心、この神の熱心な働きをイザヤは静かに深く信じておりました。
  イザヤは反アッシリヤ同盟に終始反対してきました。またエジプトと同盟を結ぶことにも反対しました。何故反対したのでしょうか。「アッシリヤは私の怒りの鞭」(10の5)とあります。敵とみるものも、神の器であるという歴史を超える神の支配、それを神の主権と言いますが、それをイザヤは信じていました。

【5】
  イザヤは、それを「神の聖」と言いました。イザヤは、自分の神の特質を何よりも「聖」という一語で捉えたが、この神に対して人間の側に求められる姿勢こそ、「信仰」という一語にあったことを強調したのでした。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」と天使の賛美する声の中で、イザヤは「私はここにおります。私を遣わしてください」(6の8)と、預言者として立たされます。イザヤは、「災いだ。私は滅ぼされる」者でありながら、預言者として立たされます。
  他者と対話するとき、聖典は生きるものとなります。現実と向き合うことによって、神のことばが入ってきます。召命以来、一貫してイザヤは神のことばを語ってきました。しかし、民は一貫して聞きません。だが、そうした聞く、聞かないといったことを越えて、イザヤは神の支配、神の主権、その働きを信じ抜くのであります。
  「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」(7の4)。良いことばですね。何故、そう言えるのか。それは歴史を貫き、また歴史を超えて働く神を信じるからであります。私の人生に先立って神は働かれる。そう信じて他者と対話することによって、さらに聖なる神を知らされていきます。政治家ではありませんが、政治家以上に国際政治に洞察力を持つ者とされていきます。

【6】
  私の考え(空想)で言えば、イザヤは驚きの人ではなかったでしょうか。語っても聞かれない。「この民の心をかたくなにし」(6の10)に驚き、また自分の語った言葉に、「見よ。おとめがみごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(7の4)の言葉に自分で驚いたのかも知れません。語って、さらに深くされる、それが預言者でありましょう。
  イザヤに比べて、私の召命観はあやふやであり、また驚きのない自分の生活にあきれています。初代教会の人々には、驚きがありました。神はイエスを甦えさせられた。この驚きが初代教会の伝道の出発点であり、私たちはその証人であると、その召命観も明確であります。この驚きのない人は、伝道に立てません。
  私たちは第一アドベントを迎えました。神の御子が人となった。神が人となる。この驚きが世界史を動かします。ルカは、イエスの誕生を、皇帝アウグストゥスと並べております(ルカ2の1)。キリストの甦りを信じる人はいなかったのであります。しかし、み霊を受けた者たちは、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(使徒2の36)と証していったのであります。

【7】
  「どんな時にも道を備え、あなたのわざを神は祝す。いつもあなたの先に進み光を照らして導かれる」(賛美歌528番)。イエス・キリストの誕生、福音書での働き、そして復活。それは神のみ業の生きたしるしであり、それはまた私たちのためであります。大きな神が小さい私に働きかけてくださいます。この訪れ、この福音を聞いて驚かないのは嘘であります。
  今日はご一緒にイザヤ書39章をお読みしました。ヒゼキヤは神の刑罰が延期されたことから、自らの誤りを悔い、「あなたの告げる主のことばはありがたいものです」と、答えました。私の妻一枝さんは、食欲を失い、風を吸い、露を飲むという仙人の生活であります。しかし、担当医(福屋裕嗣先生)によると、栄養は足りています。不思議です。
  今日、交読文で詩篇31編を交読しました。15節に「主よ、私はなお、あなたを信頼し、『あなたこそわたしの神』と申します。」とあります。文語訳では、「わが時はすべて汝の御手にあり」となっております。私の時が、くずれ易い時でなく、神の御手の中にあることを信じさせていただきましょう。生きる時も死ぬ時も私の時は神の御手の中にあります。そういう神を、私たちは神として信じているのであります。

【結】
  小さく、罪深く、もろい私の時(人生)が、大きな赦しと愛の手の中に抱かれています。そのことにアーメンと言いましょう。「信じなければ、あなたがたは確かにされない」(イザヤ書7の9)。私は「信」と名付けられたことを、父のかた身として遺言としてありがたく思い、受けとっています。信じるとは本当によい言葉です。神に祈祷を捧げます。祈ります。

【祈り】
  アブラハム、イサク、ヤコブの神、イエス・キリストの父なる神、歓喜、歓喜、歓喜。12月、クリスマスの時、一番笑っている方は誰でしょうか。「神はこの世を愛して」(ヨハネ3の16)とあります。最もお笑いになっている方は神ご自身、あなたでありましょう。共にローソクを持って、優しい心とほほえみを私たちにももたせてください。慰めを受けて信仰の喜びに輝かせてください。また困難な中にいる鳩山内閣を祝すると共に、高きにいるものが一番低いものに仕えるものとなるように導いてください。この祈りを主の御名によって祈ります。
アーメン!!


 

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2009年11月01日

11月1日 藤崎信師「ヒゼキヤの祈り」イザヤ37:1〜38


【序】
  10月になりました。一年の一番美しい秋、そのような祝祭の時となりました。しかし、景色を見る喜びでなく、聴くという、「み言葉を聴く」という喜びによって、秋は一層美しいものになりましょう。強くて暗く、強く人を動かす主の言葉に、心を開きましょう。
【1】
  美しい季節、涼しくなると食欲も戻ります。「主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」(アモス書8:11)と、アモスは申しましたが、襟を正して御言葉への食欲を、主によって取り戻すように、願い祈りたいと思います。「見る」美しさと共に、「聴く」美しさに、心を開かせていただきましょう。
  イザヤ書も終わりに近づきました。第一イザヤは39章で終わります。第一イザヤ書36章から39章は、列王記下18章から20章と大体一致しています。列王記にないものは今日、ご一緒に読んだ、「ヒゼキヤの祈り」であります。勿論、暗いところでヒゼキヤ王は、祈るのであります。わたしには少し、分かるのであります。
  一枝さん(わたしの妻)の健康は、一歩前進、一歩後退というときを過ぎて「一歩前進、二歩後退」と言う状態であります。そういうことは好ましいことではありませんが、誰にでもやがて起こることであります。「遠い昔のヒゼキヤの祈り」を、近くわが身に感じるというのが、わたしの昨今であります。せん方尽きた中の祈りであります。
【2】
  きょうは、ご一緒にイザヤ書37章を読ませていただきました。先週、礼拝後、ある方から、「一章づつ読んでいく力強さに圧倒された」と言う感想をいただきました。自分の感動したところを伸ばしていく、そこに成長が、そして成熟が形作られていきます。小さい感動を大切にしたいと、思います。
  この9月に入り、日立市から課長と係長さんが訪ねてくださいました。駅舎を新しくするので、平和の鐘を移動させていただきたい。その許可をお願いしますと、いうものであります。その鐘は、わたしが日立にいたときに皆さんと建てさせていただいたものであります。わたしにはその権限は少しもありません。しかし、日立市は人を大事にする、そういうことを感じて、わたしは感動したのであります。
  一昨日、「新幹線とホテル」という切符を求め、ホテルオークラに泊まったので、先生のところにお寄りしたいと、名古屋から二人の婦人が訪ねて見えました。一枝さんは感動しました。ペンション北欧でお会いした人でした。このようにわたしたちは、小さな感動が与えられ、しかも、それは主がなしたもうた業であると、信じるのであります。
【3】
  今日、ご一緒に読んだイザヤ書37章は、少し長いのですが、三つにわけてみたのであります。第一は、「掲示部」であります。イザヤの訴えと言うことであります。そこには、イザヤの嘆きと痛みを見ることができます。第二は、「展開部」であり、再度の要求が展開されております。全くつらいことであります。
  第三は、祈りの答えであります。これは、「再提示部」と言う形をとっております。イザヤ書37章を何度も何度も読んで、わたしはこのように勝手に三つに分けたのであります。祈りは聞かれる。そして勝手に、楽しければ寿命は延びる、と考えたのであります。与えられた時を生きる。これが、楽しい美しい生き方、死に方だと思います。
  「ヒゼキヤ王はこれを聞くと衣を裂き、粗布を身にまとって主の神殿に行った」(1)。そして、予言者、アモツの子イザヤのもとに人を遣わして、「残っている者のために祈って欲しい」(4)と願ったのであります。喪服を身にまとい、ヒゼキヤは「胎児が産道に達したが、これを生み出す力がない」(3)と訴えております。
【4】
  これは危機的状態にあると、言うことであります。1節〜7節は、「イザヤの、町が救われると言うこと」が、述べられています。「主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営が18万5千人を呑み殺した」(36)。第二の「再度の要求」8節〜22節。これは展開部であります。これは新たな降伏命令であります。クシュ(エチオピア)が軍を進めてくると聞いて、セナケリブが、ヒゼキヤに使者を遣わします。
  内容は、「お前が依り頼んでいる神にだまされるな」と言うものであります。これは手紙で、ヒゼキヤは「それを主の前に広げ、主の前で祈った」(15)のであります。どんな気持だったのでしょうか。「生ける神、あなただけが主であるこれを知るに至らせてください」(20)。進退の詰まった中での祈りであります。強くて暗く、強く人を動かす祈り、と思います。
  21節〜35節は、「祈りの答え」、再提示部であります。36節〜38節は、セナケリブの撤退であります。「お前は聞いたこれががないのか、はるか昔にわたしが計画を立てていたことを」(26)とありますが、これらのことは、セナケリブが、主の道具に過ぎないことを語っています。「わたしはお前の鼻に鉤をかけ」(29)とあります。
【5】
  イザヤ書とは、暗き審きの使信のもとに、絶えず聞こえてくる別の言葉があります。「わたしはこの都を守り抜いて救う。わたし自づからのために、わが僕ダビデのために」(35)。これがヒゼキヤに対するイザヤの救いの言葉の結語であります。アッシリヤ軍の敗退も、エルサレムの救いも、残れる者の繁栄もすべて主のなしたもうことであります。
  イスラエルの力によるものではありません。「万軍の熱情がこれを成就される」(32)。主の熱情が、ダビデの末に御子、イエス・キリストの誕生をみ、主の苦難の生涯を生み、主の熱心が十字架の死と復活の救いを成就するのであります。今日は、「ヒゼキヤの祈り」と言う表題を掲げさせていただきました。列王記下18章5節「彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼の後にも先にも、ユダの王たちの中で彼ほどの者はだれもいなかった」とあります。
  アハズ王は主の言葉を聞きませんでした。それに対してヒゼキヤ王はみ言葉を聴き、深い淵から、心を高く上げて祈りました。また、ヒゼキヤ王は、予言者・アモツの子イザヤを信頼して、一度信頼した者に、たとえその人が、あるいは自分に反対と見えるときでも、信頼を貫きました。37章には、そうした関係が隠れて見えると思います。
【6】
  話は飛びますが、明治天皇が明治維新という大業を歴史にとどめました。しかし、祈りの対象を持っていたのでしょうか。導く相談者、ヒゼキヤに対するイザヤを欠いていたのではないでしょうか。夏目漱石は、小説の中で、天皇の死とともに、「明治は終わった」と書いております。しかし、・・・
  その終わりは、実は8月15日であろうかと、わたしは思っております。その日を期して、軍閥、財閥、すべてが終わりましたが、官僚だけが残りました。戦後今日に至るまで有能な官僚組織の中で、日本は発展してきました。それが8月30日の総選挙により変わりました。鳩山内閣は「脱官僚」を掲げております。
  終わりが、本当の始まりであります。鳩山政権の一ヶ月を見ても、難問が堆積していると言う感じであります。しかし、世界では25%のCO2削減の提言は、高く評価されています。目の前のことに捕らわれず、大きな流れ、そして高い目標を目指して、進んでいただきたいと、思います。そしてまた、ヒゼキヤに対するイザヤの出現を、今日的なこととして、わたしは希望します。
【7】
  俊さん(わたしたちの孫)は、大きな欠点を持っております。人と会う時、初めての人に、嫌悪を表します。わたしも人の前でものが言えなく、クリスマス劇などでモジモジして笑われました。それが、いま人の前で話をする業に導かれました。祈りとは、強く暗く、強く人の心を打つものであります。母の祈りを感じます。どうしようもない子のために、母は祈りました。
  どなたも欠点を持っております。自分の気持に勝てないのであります。生涯そういう嘆きと痛みを負っていきます。ですから、祈りは強く暗く、強く心を打つものでなくてはならない、と思います。「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ:わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)。
  これは、典型的な聖書の祈りであります。捨てられる者となって、イエスは神に祈っています。強く暗く、強く心を打つものであります。知、情、意とありますが、聖書を通して神を知る、そして、感動する、神が一方的に愛してくださる。その恵みにすべてをお委ねする。その恵みを意思を持って受け取るという、三段論法で、キリスト者に、ならせていただきましょう。「信じます。わたしを神の子にしてください」と祈る者になりたいものであります。
【結】
  小林秀雄は、「母親は俺の言動の全く不可解にもかかわらず、俺と言う男はああゆう奴だという眼を一瞬も失ったことはない」と。ヒゼキヤ王も、王として駄目なところを反省していたと思います。しかし、神の愛を、一時も失わない。神の愛を信じて、祈ったのではないでしょうか。神に祈祷を献げます。祈ります。
【祈り】
  主イエス・キリストの父なる神、み名を賛美します。先週犯しました罪、人を愛することの乏しいことを、み前に懺悔し、悔い改めます。どうか今味わえる「小さき喜び」を大切にしていけますように。小さきものに主のご恩寵を感じさせてください。小さな感激をお与えください。心から主イエスを愛して、今週も過ごせますように。鳩山内閣を祝し、お導きください。困窮者、病者、心病む人々に、癒しと平安を祈ります。

アーメン!!
 
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2009年10月04日

10月4日 藤崎信師 「ヒゼキヤの大病と癒し」イザヤ書38:1〜22

 

【序】
  昨日は、宗教改革記念日(10月31日)でありました。「福音の再発見」と言うプロテスタント(新教)の新しい出発日であります。そして、また今日は「聖徒の日」(永眠者記念日)であります。午後は、聖望キリスト教会の創立を祝うコンサートが予定されています。

【1】
  このようなとき、わたしたちはどう生きればよいのでしょうか。今朝は交読文で詩篇37編を交読しました。「あなたの道を主にまかせよ」(5)とあります。主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる」(23)とあります。
  宗教改革者のM・ルターは、「神のみ言葉こそ進みにすすむ」と、歌いました。わたしたちは、ただその進むみ言葉に従っていくのみであります。決して難しい道を歩むわけではありません。進むみ言葉に、ただついてゆけばよいのであります。このやさしい道をわたしたちは信頼をもって、歩み続けてきたのであります。
  静かにイザヤ書を読んできて、わたしたちは今日はその38章に至りました。そこには、「アハズの日時計を十度後戻りさせる」(8)とあります。神は「時の支配者」であります。わたしたちの歩みはのろいものでありますが、38章まで、途切れる事もなく、左右に動く事もなく読み続けたその背後に、導く神の御愛を感じます。わたしは畏れと、喜びを感じるものであります。

【2】
  「そのころ、ヒゼキヤは死の病にかかっていた」(1)。「そのころ」とは、ヒゼキヤの病気をセナケリブの攻撃の頃(BC701年)と結び付ける編集上の付加であります。1節〜8節は、「ヒゼキヤの大病と回復」が語られています。9節〜20節は、「ヒゼキヤの感謝の歌」であります。
  なぜ病気になったのか、心労と言うことも重なったと思います。 大病です。「イザヤは、『主はこう言われる。あなたは死ぬことになっている。家族に遺言をしなさい』と」。ヤコブは12人の子どもたち遺言して、「寝床の上に足をそろえ、息を引き取った」(創世記49:23)とあります。行儀のよい死に方であります。
  やはり遺言は必要でありましょう。「ヒゼキヤは顔を壁に向けて、祈り、涙を流して大いに泣いた」(3)。「顔を壁に向ける」とは、集中すること、(集中と根気、これが物事を完成させる秘訣)神に向き合うことです。「大いに泣いた」。素直な人です。預言者イザヤの直言と、ヒゼキヤ王に期待して祈るこの姿は、実に美しいと思います。わたしは、母の涙の祈りを想い出しました。

【3】
  主の言葉が直ちにイザヤに臨みます。「ヒゼキヤのもとに行って言いなさい。父祖ダビデの神は、あなたの祈りを開き、涙を見た。見よ、わたしはあなたの寿命を15年延ばし、わたしはこの都(エルサレム)を守り抜く」(4〜6)。これは病気の癒し、回復の約束ですね。「キズもへこみも直ります」ということでありましょう。
  しるしが与えられます。「見よ、アハズの日時計を、10度後戻りさせる」(8)。そして、そのようになります。今朝、招きの言葉で、「日よ、とどまれ、ギブオンの上に、月よとどまれ、アヤロンの谷に。日は、とどまり、月は、動きをやめた」(ヨシュア記10:12、13)と言う聖句を聞きました。いい言葉ですね。
  月がとどまり、時が後戻りをするというこれらの奇跡は、神が「時の支配者」であるという象徴的な表現であります。「時計の針が前に進むと『時間』になります。後に進むと『思い出』になります」(寺山修司)。わたしたちの人生でも、いつまでもとどまる「一瞬の思い出」があろうかと思います。キリストとの出会いこそ、いつまでもとどまって欲しい賜物であります。

【4】
  病いやされ、ヒゼキヤは、「感謝の歌」を献げます(9〜20)。これはわれわれキリスト者の歌でありましょう。前半は、「罪の懺悔」であります。「わたしの生涯は羊飼いの天幕のように、引き抜かれ、取り去られてしまった」(12)。あまりにも早く死が訪れる、と言うことであります。罪の自覚を感じさせます。
  それゆえ、「ツバメや鶴のように、わたしはすすり泣き声をつげる。わが主よ、わたしはせめさいなまれています」(14)。答えのない質問をしているようであります。しかし、「み霊が言いがたきうめきをもって取り成してくださいます」(ローマ8:26)。後半は、「見よ、わたしの受けた苦痛は平和のためにほかならない」(17)であります。
  救いの体温の感覚の中でヒゼキヤは、「主よ、あなたはわたしを救ってくださった。わたしは命のあるかぎり主の神殿で、音楽を共に奏でましょう」(20)。このようにヒゼキヤは感謝の歌をうたうのであります。音楽とは、言葉なき祈りでありましょう。そういう人が、そこにいる、わたしは地上で一人でないと言う気持ちに導かれます。

【5】
  ヒゼキヤの感謝の歌を、読み返しているうちに、ナインの母親(やもめ)に語った主イエスの言葉が甦ってきました。「もう泣かなくてもよい」(ルカ7:13)と言うお言葉であります。M・ルターは、「わが命もわがたからも、取らばとりね、神の国はなお我にあり」(賛美歌267番)と、高らかに歌いました。
  「もう泣かなくてもよい」。この言葉を、聖霊を通して自分の言葉として、聞かせていただきたいと、切に思います。申でも受けいれる方がおられる。その方はイエス・キリストであります。宗教改革は、「福音の再発見」であると申しました。それぞれが、聖書から再発見をする生活に、新しく入っていただきたく思います。
  今日はまた、「聖徒の日」であります。キリストに結ばれ、天に召された人々を、わたしたちは懐かしみます。家庭集会の時、わたしの右に岩井大三さん、左に小林育夫さんが、いつも居られました。礼拝のとき、わたしの右に五賀興さんを、そしてまた訪問して聖餐を受ける喜びを、顔一杯に表わしていた中田昌彰さんを懐かしく思います。

【6】
  「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている」(ヘブル12:1)。わたしは「永眠」と言う言葉より、「召天」と言う言葉を愛します。眠るより、活動であります。召された者たちは、天においてキリストを中心に、「聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主」(黙示録4:8)と賛美しております。
  わたしたちは、天における歓びを先取りして、「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの」(黙示録19:1)と天の大群集と共に、賛美したいと思います。天と地を結び付けるお方は、キリストであります。再発見をさせていただければ幸いであります。
  ヒゼキヤ王は、「その後、ユダのすべての王の中で、彼のような王はなく、また彼の前にもなかった」(列王下18:5)と、言われております。その彼が、「御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください」(3節)と言って、「涙を流して大いに泣いた」とあります。無一物になる時、真の自由、まことの信頼は到来します。

【7】
  ドストエフスキーは20歳のとき、死刑を宣告され、刑の直前恩赦を受けて、シベリアに流され、そこで4年間苦しい生活を余儀なくされます。その間、デカプリスト(12月党員)の婦人によって与えられた聖書一巻だけを読みに読んだのであります。「鹿が谷川の水を慕いあえぐ」(詩篇42:1)ように、み言葉に沈潜します。
  後に、聖書を下さった人に、「不幸と思われることの中に、真理が現わされるのです」と書いております。主イエスは、「悲しむ人は幸いである。その人たちは慰められる」(マタイ5:4)と申されました。悲しみの中に、本当の慰めがあります。イエス・キリストを仰ぐ時に、そこから慰めが泉のように湧き出るのであります。
  矢内原忠雄先生は、しばしば「新しい宗教改革」と言い、現代に宗教改革の必要性を訴えました。わたしは、「人々を大切に」と言う鳩山内閣に、世俗的な宗教改革の一端を見るものであります。鳩山由起夫さんに、預言者イザヤのような人物が与えられ、ヒゼキヤ王のように、その困難多き諸問題を克服していくように祈る者であります。

【結】
  矢内原先生は、「人はだれでも聖書を読まなくてはならない」と、言われました。その中に、救いが示されているからであります。「福音を信じなさい」。そういう教会となり、わたしたち一人ひとりも、「喜びの人」になっていきましょう。神に祈祷を献げます。祈ります。

【祈り】
  主イエス・キリストの父なる神、み名を賛美します。先立つ神は戦われます。そのあなたにただお従いして参ります。「信仰の創始者また完成者であるイエス・キリスト」(ヘブル12:2)を、お与えくださったことを感謝します。罪人に恩寵溢れるという喜びを新しく得させてください。恵みを安価なものとするこの罪より、わたしたちを救いとってください。また、鳩山内閣を支える一員としてください。そして俗世間的な宗教改革をこの地で行なわしてください。み名によって祈ります。
アーメン!!

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2009年09月06日

9月6日 藤崎信師「セナケリブの降服要求」イザヤ書36章1節〜22節

【序】
  わたしは今年も8月15日「平和行進」に参加しました。日立の人びとは、「先生の顔が大写しでNHKのニュースに出ました」と言いましたが、わたしは見ておりません。今回で43回になります。新聞によると、参加者は300人と言うことであります。
【1】
  ポツダム宣言と言うものがあります。聨合国が日本に無条件降伏を求めたものであります。通告を受けたが、天皇制の護持は必要であると、もたもたしているうちに原爆の投下になり、これを受諾することになり、8月15日の降伏の日を迎えます。ポツダム宣言に署名したのは9月2 日でありました。わたしは今も、この9月2日を覚えています。
  ご存知のように、去る8月30日の総選挙により、自民党政府の敗北と、野党民主党の大勝利がもたらせられましたが、これは、歴史的な出来事であります。「こんなに大きくなるとは」との言葉もあります。しかし、一票の重みを、国民は感じております。わたしは、神の働きを強く感じます。9月1日から、わたしは新しい歩みをしたいと言う思いをもたらせています。「歴史を変える戦い」そういうものを感じます。
  民主党がこれからどういう政治を行うか、国民は期待し、世界の人々も、かたずを呑んで注目しています。しかし、人気ほど不安定なものはありません。初めての政権であります。失敗はあるでしょう。わたしたちは「四年間で一歩前進」すれば、と言う気持ちでこの選んだ政党を支え、育てて行きたいと思います。根気が必要でしょう。
【2】
  今日は、皆さんとイザヤ書36章をご一緒にお読みしました。1章からここまで読み続けてきました。神の守り、支えとを感謝いたします。感謝とは、神をほめたたえる表現方法の一つであります。礼拝を超えて、全生活を上げて、感謝し、神を賛美する。こういう生活を、この9月からさせてもらいたいと、願っています。
  今日、ご一緒にお読みしたイザヤ書36章は37章へと続いております。ここは、イザヤ物語、あるいはヒゼキヤ物語というべき所であります。今日、ご一緒に読んだ箇所は、表題に掲げさせていただきましたように、ラブ・シャケの降服要求という内容であります。彼はアッシリヤ王セナケリブの代理者であります。
  彼は、あつかましく、しかも堂々と降服を迫ります。アッシリヤの記録によると、その時既にイスラエルの46の町々は、アッシリヤ軍によって占領されております。そういう背景がありますから、彼の豪語には実体が伴っております。それを聞く者はアラム語(国際語)で話してほしい、と願ったのであります。
【3】
  ユダの言葉では、「話さないでください」(11)。城を守る者が意気消沈するからであります。彼は先ずヒゼキヤの子である宮廷長エルヤキムと他の二人の者に向かって、「エジプトに頼るな」(5)。「折れかけた葦」ではないか。また、ヒゼキヤは「高台を取り除いて」(7)、宗教改革をして、「主により頼む」と言っています。
  それから、「今わが主君アッシリヤ王と賭けをせよ」(8)。とても、とても勝つはずはない。「主がわたしに、『この地に向かって攻め上がり、これを滅ぼせ』とお命じになったのだ」(10)。主が命じたのだ。こんな言葉を城壁を守るものに聞かせられない。そこで、「アラム語でお話しください」(11)と、なるのであります。
  そこで、ラブ・シャケは、「わたしと和を結び、降伏せよ」(16)、そうすれば、「自分の井戸を飲むことができる」。再度、「主は救い出せない」(26)と言いますが、「答えてはならないと王に戒められているので」(21)、沈黙を守ります。
【4】
  そうして、三人の者は、「衣を裂いて」(悲しみに鞭打たれて)、「ヒゼキヤのもとに来て、ラブ・シャケの言葉を伝えた」(22)と、言う言葉で36章は終わっています。次の37章で予言者イザヤが登場してきます。ポツダム宣言と時代も人物も異なりますが、無条件降伏という内容は、何か似ているように思います。
  今朝は、また詩篇71編を交読しました。これは、「老いたる者の賛美の歌」と言われる詩篇であります。「主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼んで」(5)きました。ですから、「老いの日にも見放さず、わたしに力が尽きても捨て去らないでください」(9)と、このように願い祈っております。
  老いるということは、若いとき、或は壮年期にくらべると無条件的にすべてが弱くなります。これは外敵と言う外からのものではありませんが、内なる敵というものであります。「敵がわたしのことを話し合い、わたしの命をうかがうものが共に諮りあっています。「神が彼を捨て去ったら、追い詰めて捕らえる。彼を助ける者はもういない」と(詩71:11)。
【5】
  これを別な言葉で言いますと、「神がおまえを支えない、もう捨てたのだ」と、言うことであります。聖書を読んで知ることは、今まで知らなかった暗さを知り味あうと、言うことであります。老いの弱さの中で、「もうお前は神に捨てられたのだ」と言う、このような内なる敵に遭遇することであります。
  M・ルターは、「信仰の消息を知りたいと思わば、詩篇を読みなさい」と、言いました。老いの問題の中で、助けでなく、「神はあなたを支えない」と声を聞かされ、全面降伏せよとの内なる声に脅かされます。信仰すればすべてがよくなると言うのでなく、最も助けが必要なとき、敵に降服せよと、迫ります。
  聖書を読んでいて、それまで知らなかった深い闇と共に、真実の光を見るような思いがします。71篇の詩人は、そのような暗闇の中から、「わたしは常に待ち望み、繰り返し、あなたを賛美します。」と歌っております。賛美とは、神様から受けた感謝の表れとしての表現行為であり、礼拝を超えて、生活全部、生き方全部が神様への感謝や賛美であります。
【6】
  「わたしの口は恵みのみ業を、御救いを絶えることなく語り、なお、決して語り尽くすことはできません」(詩71:15)。詩人は救いを、癒しを体験した者であります。しかし、ただ彼は過去のことを回顧しているのではありません。これがこの詩篇の特徴であります。明日を見ているのであります。その彼の願い、希望、目標はいったい何でしょうか。
  それはまさにこの18節にあります。「わたしが老いて白髪になっても、神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を、来るべき世代に語り伝えさせてください」(18)。残りの生涯において、若い世代に向かって、あなたの力(福音)を述べ伝えるまでわたしを見捨てないでくださいと、祈っています。
  旧約聖書は、「力は若者の栄光。白髪は老人の尊厳」(箴言20:29)とそれぞれの世代の生き方を認めています。わたしは、オールドジェネレーションの頼もしいことを、それを助ける仕事の一端を、この9月1日から担わせていただきたいと、思っております。老いの日も、主を仰いで生活させてくださいと祈るものであります。
【7】
  イザヤ書36章も、詩篇71篇も、時代が違い、書かれている個所も違います。しかし、同じものは、「信仰に生きる」と言うことであります。ヨセフ物語、ダビデ物語、ダニエル物語に共通することは、「ヒゼキヤに聞くな」と言うことでありましょう。
  よい決心が与えられても、「藤崎信に聞くな」と言う声が、澎湃として起こってくると思います。人の言葉でなく、内なる声として、「神はお前を支えない、見捨てた」と言う強敵に遭遇することと思います。歴史を変える戦いとは、自己を変える戦いであります。オールドジェネレーションが円熟期であるならば、単純な福音に帰らなければなりません。
  「あなたは持っているものをすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」(ルカ18:22)。分け与えるとは、単なる同情ではありません。神のわたしたちに対する態度であります。神に信頼を捧げ、主イエスにお従いいたしましょう。
【結】
  「ナッハ、ホールゲ」(主に従う)。「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい」(ダニエル書12:12)。終わりまで、主に従う。しかも、それが「お前の道」と分かるまで、神を誠実に信じ、主に従う者でありたいと、思っております。神に祈祷を献げます。祈ります。
【祈り】
  主イエス・キリストの父なる神、み名を賛美します。さわやかな9月を迎えました。日本の政治を守られるように、わたしたちの教会生活をお守りください。救いの日を感謝させてください。それは回顧ではなく、明日を見ることであります。イエスにある甦り、永遠の命の希望が与えられています。老いていくことに深い意味があります。それは、決して悲惨でもなく、無意味でもありません。むしろ、栄光への脱出であります。輝く日を仰がせてください。この祈りを主のみ名によって祈ります。
アーメン!!
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2009年08月02日

8月2日藤崎信師「主の大路」イザヤ書35章,ルカ15章22〜24節

◆イザヤ書35章

――荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、
サフランのように花を咲かせる。
盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。
レバノンの栄光と、
カルメルやシャロンの威光をこれに賜るので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。

弱った手を強め、
よろめくひざをしっかりさせよ。
心騒ぐ者たちに言え。
「強くあれ、恐れるな。
見よ。あなたがたの神を。
復讐が、神の報いが来る。
神は来て、あなたがたを救われる。」
そのとき、目の見えない者の目は開き、
耳の聞こえない者の耳はあく。
そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、
口のきけない者の舌は喜び歌う。
荒野に水がわき出し、
荒地に川が流れるからだ。
焼けた地は沢となり、
潤いのない地は水のわく所となり、
ジャッカルの伏したねぐらは、
葦やパピルスの茂みとなる。

そこに大路があり、
その道は聖なる道と呼ばれる。
汚れた者はそこを通れない。
これは、贖われた者たちのもの。
旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。
そこには獅子もおらず、
猛獣もそこに上って来ず、
そこで出会うこともない。
ただ、贖われた者たちがそこを歩む。
主に贖われた者たちは帰って来る。

彼らは喜び歌いながらシオンに入り、
その頭にはとこしえの喜びをいただく。
楽しみと喜びがついて来、
悲しみと嘆きとは逃げ去る。――


【序】
  8月になりました。例年と違いまして、暑き選挙の8月となりました。先日(7月20日)、麻生首相は衆議院の解散を宣言し、8月18日を選挙の告知日とし、30日を投票日としました。マスコミは、「力のない解散だ」と一斉に報じました。国民は、この一ヶ月をどう生きるのでしょうか。

【1】
  「緊張した日々」として過ごすのか、「中だるみの毎日として暮らす」のか。わたしには到底想像のつかない日々であります。淡々として過ごすのが、一番であるとの予感がします。原爆の日々、そして敗戦日を静かに噛みしめて、30日の投票日を迎えたいと思います。「静かにして、落ち着いて」30日を迎えましょう。
  わたしは報道機関の「神聖な働き」に期待します。明治維新が何故起こったか。いろいろな解釈があります。わたしは、「国民が封建制に飽きたから、と思っております。しかし、人権は確立しませんでした」。「靖国が人権を粗末にする機能として働いた」と、わたしは思っております。
  この選挙を通して、「国民主権」が徹底されるようマスコミに希望します。国のために国民がいるんではありません。人々を守るために国があるのであります。人びとである派遣労働者や、高齢者、障害者、病者を大切にするのが、国の務めであります。何よりも、平和を希求します。

【2】
  わたしたちは、このようなとき、イザヤ書を読むことは、時期にかなって大変ふさわしいことである、と思っております。それは、「審きに服し(イザヤ書34章)栄光に与かる(イザヤ書35章)」という主張であります。神の働きに目をとめることであります。今日はイザヤ書35章を輪読させていただきました。
  輪読は素晴らしいことであります。皆が読み、聞くという業に与かるからであります。しかし、聖書朗読ということも、礼拝の中の大切な要素の一つであります。堅固兄弟に読んでいただきます。この詩は、「旧約の予言の中、最も美しい詩の一つである」(手塚儀一郎)と言われたものであります。
  1、2節は、「荒れ野よ、喜び躍れ、花を咲かせよ」という自然そのものが栄化されるという喜びの予言であります。バビロンとエルサレムの中間にあるシリア砂漠に花が咲きます。旧い訳では、「さふらん」であり、新共同訳では「野ばらの花」となっています。岩波の関根清三訳では、「ゆり」であります。

【3】
  田崎健作先生は米国留学から帰り、倉敷教会でイザヤ書35章の説教をしました。翌日月曜日信徒が二人して、花をささげて、「昨日はよい説教をありがとうございました」といって帰られました。ご夫人が帰ってきて、「まあ、きれいなサフラン」と言ったのであります。先生は俄かにあわてました。
  昨日の説教で、「砂漠にソウランの花が咲き」と「ソウラン、ソウラン」と言ったのであります。信徒さんは、そのあやまちを攻めず、感謝の花を献げられたというのであります。そこから田崎牧師は牧師らしい人となっていきます。教会には、牧師を育てる教会と、駄目にする教会と、二種しかありません。わたしには、「信徒の育つ教会」しかありません。
  バビロンからエルサレムまで、直線距離にして、900キロメートルあります。そこの砂漠に、不思議な神の働きで花が咲くということは、バビロンとエルサレムの距離を短くするということでありましょう。3節、4節は「弱った手に力を込めよろめく膝を強くせよ」という励ましであります。バビロン捕囚から、50年たっています。

【4】
  若者も高齢になっています。病人もおるでしょう。バビロンに留まりたい、という人もおったことと思います。特に指導者といわれた言葉でありましょう。エルサレムに帰れかどうかと、思い悩むものに、「神は来てあなたたちを救われる」(4)と、慰めと力を与えるのであります。態度が決まりますね。
  「その時、見えない人の目が開き、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる」(5〜6)。よい言葉ですね。事故にあったり、心身に不自由を感じる人たちは、帰還できるかと危ぶんでおる人がおります。しかし、荒地に花が咲くばかりか、健康の不自由な人びとにも恵みが与えられます。
  「荒れ野に水湧きいで」(6)、「葦やパピルスの茂るところとなる」(7)、その緑のあるところに、「そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれる」(8)。そして、「主に贖われた人々は帰ってくる」(10)。贖われた人とは、捕囚から解放されたユダヤ人であります。「主はその民に先立って歩まれる」とあります。

【5】
  でありますから「とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げる」この「嘆きと悲しみは逃げ去る」という最後のことばは、どなたにも実現してほしいというものであります。今日はイザヤ書35章を学ばせていただきました。
  「主の大路」という表題にさせていただきました。それは、どなたにも「主の大路」があるということであります。わたしたちは知っているより、知らぬことが多いのであります。神が先頭に立って導く、主の大路があります。一枝さんは、トランクを開けますが、荷をつめる力がないのであります。
  すっかり弱ったのであります。7月20日(月)お連れ下さる方が加須に来てくださり、富士見高原に参りました。今日、イザヤ書35章を学びましたように、年齢、性別、身体の強弱、また傷害の有無に関わらず、われらの神は、わたしたちの先頭にたって導くのであります。祝福するのであります。

【6】
  一枝さんは、ペンション「北欧」を、「神のいやしの館」と言って感謝しています。食欲も出てよかったと思ったのですが、先月7月27日入浴中転倒して腰、胸を打ち、富士見高原病院で検査を受け、骨折はなく打撲と診断されました。
  マタイ11:2〜5節を見ますと、御自分の答えの中に、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、耳の聞こえない人は聞こえ」と述べておられます。つまり、ご自分をイザヤの予言の成就者であると語っております。主イエスは、救い主として通るべき道程をしっかりと歩み通されたのであります。
  わたしは、「主の大路」を行く者にも、なすべき務めが与えられている、と思うのであります。8月30日に選挙があります。川に瀬があります。右に瀬がありますと、次に左に瀬がと、左右対称であります。川の学会でも理由はつかめていませんが、選挙にも、そのようなことがあると思います。一方的な勝敗とならぬようにと願っています。

【7】
  マニフェスト(政権公約)をよく見比べ、主張の論点を自分なりに決めることが大切です。「少子高齢化」に対しては、一時的なばら撒きでなく仕組みを考える党を選ぶようにしたい。農業の自給率も、国の方針として、50%から60%と高めの努力が必要であります。わたしは、今日の聖句の結論は、ルカ15章20節にあると思っております。
  「走りよって首を抱く」とあります。放蕩息子の父は、捜索願を出したり、意見めいたことは述べておりません。我慢強い父親です。だからこそ、「死んだのに生き返り、いなくなったのに見出した」と、言いえたと思います。父からの赦しをいただく、これがすべてだと、思います。
  この中に、「荒地に花咲き、その時、見えない者が見えるようになり、主の大路、主が先立って導く、大路を歩む」。そうしたことすべてが、含まれていると考えます。走り来て、抱きかかえる神、そこが見えてくると、天命と言いますが、自分の歩むべき方向が定まってきます。

【結】
  「自分の小道」でなく、「主の大路」を歩ませていただいていると言う確信と、安らぎを持たせていただきましょう。「人事を尽くして天命を待つ」でなく、「天命を知って人事を尽くす」この方向に歩み出しましょう。大路の終わり、「主の再臨」を目指して進みましょう。神に祈祷をささげます。祈ります。

【祈り】
  主イエス、キリストの父なる神、み名をさんびします。「神を喜んで迎える人に、神は喜んで住んでくださる」(マルチン・ブーバー)。キリストが、わたしたちの中に住んでください。よいことをするのではない。キリストがとどまってくださる人生、生活をすることができますように。イエス・キリストが、わたしたちの心の扉を叩いておられることを覚えさせてください。み名によって祈ります。
アーメン!!
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2009年07月05日

09年7月5日 藤崎信牧師「エドムの審判と測り縄」(イザヤ書34章1〜17節)

【序】
  今年も7月を迎えました。都議選(7月15日の投票日)の結果次第で、うらなわれるという政局となったのであります。「われわれは出来る」(オバマ大統領)というように政権交代を国民は期待しているのでしょうか。

【1】
  民主主義の筋道からいえば、政権交代は当たり前で、一党支配が異常なのであります。野鴨は生活力旺盛ですが、餌付けられると特性を失います。悪いことに飛ばなくなります。「飼いならされた野鴨」。こういったのはキルケゴールです。飼いならされている。ここより目覚めることが、次第に来ているとわたしは思わされています。
  わたしはこの4月で、加須に10年になりました。毎朝小学生と挨拶をして10年を過ごしました。初めのころ80名以上の生徒が、今は30名一寸です。「少子化」を町の中央で実感しています。ヘルメット不賛成を唱えたが、去年から解放されています。悪いことばかりではありません。希望の光を見たいものであります。
  この4・5・6月と挨拶に立ちましたが、決まって通勤する人にも会います。不思議にそういう人から言葉をかけられます。「毎朝やっているのですか。PTAの方ですか」「いいえ違いますよ」。「子どもたちは社会の人によって育てられます」。「そうですか、行ってきます」。「いってらっしゃい」と、挨拶の輪は広がっていきます。

【2】
  内村鑑三先生は、「マウント・ホリーヨーク・セミナリという女子校は、素晴らしい」と、しばしば語ります。「他の人の行くことを嫌うところへ行け、他の人の嫌がることをなせ」。この校風があるからだ、と言います。わたしたちもこのエトスをもって、長く根気よく人と親しみ、地域を愛していきたいと思います。
  ご賛同をお願いします。どうでしょうか、「イエス、ウィ、キャン」。そうです。わたしたちは、「自分が嫌がることを、先ず行う」。このことから取り組みましょう。
皿洗いは好きでない。しかしそれを行い、「皿洗いはいいな」と歌ってそれを続けることであります。聖書に立って、10年ひとつのことをやりぬきましょう。
  前置きがすこし長くなりました。お詫びします。今日は、前回に続きまして、イザヤ書34章をご一緒にお読みしました。読者が反発するいやなところであります。まず、わたしの読み方、なぜそう解釈するのか。それを経て、それを現代に適用して、結論に至りたい、と思っています。

【3】
  先ず、イザヤ書はどのようにして編集されたのでしょう。わたしは、編集方法と書かれた時期について、考えてみました。イザヤ書の最終の編集作業として、13章〜23章に伝承されている「諸外国への託宣集」のうしろに24章〜27章に黙示録をおいて、読者の目を個別的出来事から、イスラエルにとって最後には救済を意味する全体的なドラマに向けることが意図されています。
   そのように、ここでもまた、28章〜32章(アッシリヤの軛)のうしろに、独立した短い黙示録が挿入されています(33章)。だれでも「わたしは病気だ」いわず民の罪は赦される。そして、終わりのとき、ヤーベの審判がエドムに対して行われ、救出された者のシオンへの帰還が続くというドラマであります。ですから、34章と35章は一つのまとまりであり、一つの結びであります。そういう意図のもとに編集されたものであります。
  それに、その中でも救済の言葉は、捕囚期の遅い時期に成立した40章〜55章における第二イザヤ的約束に依存していると言われます。従って、34章と35章は、イザヤの時代よりずっと後のものであります。以上のことから、わたしは「エドムの最後とシオンの救済」という角度から、説教を進めてまいりたいと思います。

【4】
  34章は二つに分けられます。1節〜4節は、「全世界に臨むべき審判の予言」であります。「主がすべての国に向かって怒り」(2)、5節〜17節は、「エドムに対する主の審判とその滅亡の予言」であります。6節の「ボツラ」はエドムの首都であり、9節の「ピッチ」は、樹脂と前に訳された「せきれい物質」(カイザー)であります。
  先ず、申し上げたいことは、「エドムの審判」は、ただエドムだけではありません、と、言うことであります。エドムはBC587年のエルサレム滅亡の際に、エドム人がユダヤ人に対して冷酷な態度をとった。これが、「主は報復の日を定められた」(8)ということの原因になっております。「復讐の日」(新改訳)という訳もあります。これは、すべての国々に及びます。(1-4)。
  34章の叙述の恐ろしさと血なまぐささは、読む者を容易に不快にし、ときとして神はこのような方ではありえぬと思わせます。しかし、善と救いのために闘う神の闘いを考慮しなければなりません。なぜなら、それ以外にわたしたちの歴史を、神の摂理との関連で解釈することができないからであります。

【5】
  実際、神の正義が救うものであると共に、罰するものでないなら、人にはほとんど希望はありえません。なぜなら、歴史のなかで悪を押し付けるものは何もなくなるからであります。歴史は人間の闘争と人間の血にみちています。そして、ヘブライ預言者は、これを率直に、真正面に見て、そのうちに神の摂理の働きを見るのであります。
  先程申し上げましたように、34章は世界各国の滅亡、特にエドムの滅亡を予言し、35章は捕囚から帰ったイスラエル人民の繁栄幸福を予言したものであります。しかも両書が同一の著者によって書かれていることは、多くの学者が認めていることであります。エドムの審判は、神に敵対するすべての者への審判であります。
  エドムの罰は、日本が聞かねばならぬ言葉だ、と思わねばなりません。「測り縄」という言葉が二度も出ております。建築用語で土地を測るものでありますが、ここでは悪いものに用いられています。そして35章の「よき地に落ちたり」となるのであります。

【6】
  ローマの信徒への手紙11章は、実によく聖書の歴史観を現しております。その中に「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい」(11:22)。とあります。神は徹底的に審き、てお救い下さる。神のなさることは、人間的限界を超えています。「エドムの審判」の中に留まる、それに服することが大切である。
  太平洋戦争の敗北、そこに「エドムの罪」を認識することが求められています。これはわたしの見解であります。戦争を知らない子が、63歳になっております。わたしは預言書を学ぶ大切さがここにあると思います。「敗北を抱きしめて」(ジョン・ダゥアー)。政権交代のように、わたしたちの歩みを、御旨に従う者にさせていただきましょう。
  古い日本の刑罰と、未来の新しい日本の栄光の幻を、イザヤ書を通して教えられていきたいと、思います。それは、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」(2:4)と言うことであります。そして、「もはや戦うことを学ばない」と言うことであります。

【7】
  日本は、聖書的に言って神の言葉によって今日まで守られてきました。まさに奇跡であり、摂理の賜物であります。これからの課題は、「連帯」ということになろうかと思います。ドイツ語で、「ガーベ」(賜物)は、「アウク、ガーベ」(課題)である、とあります。わたしは連帯が課題であると思います。
  交読文で、詩篇9編を交読しました。そこには個人の祈りが、「貧しい者」、「虐げられた者」たちへと開かれていっております。戦争によって虐げられた者と苦難の連帯をする、平和憲法への感謝の連帯をする。多くの国々も「戦うこと」を学ばないという連帯であります。そして、何よりも、「祈りの連帯」が求められています。
  一枝さん(わたしの妻)は、一進、一退を繰り返しております。しかし、わたしたちは「祈りが力である」を、実感しております。皆さんの祈りに支えられている一枝さんは、「今が人生で一番よい時である」と、目を輝かせております。感謝の連帯、苦難の連帯、祈りの連帯、この輪を広げさせていただきましょう。山本邦昭さんらが、「そよ風の会」をたちあげられました。徐々でいいですから静かに広がるように祈りましょう。

【結】
  今日は、「エドムの審判」というところをお読みしました。審かるべき者が赦され帰り来ることを祈らねばなりません。主イエスは、「父よ、彼らの罪をお許しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ24:34)と、十字架上で祈られました。わたしは、その主イエスが、わがうちに生きていますことを神に感謝する者であります。神に祈祷を献げます。祈ります。

【祈り】
  主イエス・キリストの父なる神、み名をさんびします。日々あなたを忘れ、雑念の中にいる自分自身に驚きます。しかし、そう言う者であるからして、「何をしているのか知らないのです」という主イエスの赦しの対象になっております。どうか、「もはや我、生きるにあらず、キリスト我がうちに生きるなり」とありますように、どうか、福音を心から喜ぶ一員としてください。これからの日本の選挙の上に、み心を行ってください。心からお願いいたします。この祈りを主のみ前に献げいたします。
アーメン!!
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2009年06月07日

6月7日藤崎信師「主を畏れることは宝である」(イザヤ書33章1節〜24節)

【序】
  6月になりました。「私は、つゆどきの人間の感性のしめりが好きである」(田辺聖子の『上機嫌な言葉366日』)。そんな言葉に接してホットしています。教会は、先週、「聖霊降臨日」を迎え、祝いました。わたしはその激しいほとぼりの中に、今もホッと安らいでおります。いく日もこのほとぼりは続いております。

【1】
  ペンテコステとは、50日目の祝いであり、イエスのご復活後、50日後に、約束の聖霊が与えられ、教会が誕生した、その日のことを指します。この出来事を通して、ある人は「すべてはペンテコステから始まる」(ブルームハルト)と、申しました。ここから教会が生まれ、教会の信仰を通して、聖書が編まれていきます。そして世界中の言葉に翻訳されていきました。
  この過去から、未来を展望することは、きわめて現実的であり、また必要不可欠のことであります。わたしは、「賞味期限の切れた牧師」でありますが、未成熟の自分を見出だし、喜ぶものであります。使徒言行録は「未完の書」であります。それは聖霊が働き続けるからであります。未成熟は素晴らしい。欠点は長所となるのであります。
  クリスマス・イースター・ペンテコステ。これは教会の三大祭りの日であります。ペンテコステの祝い方が乏しい、と思います。旧約聖書では、「神に従う」がすべてであります。新約は聖霊降臨日を通して、神の証人となる。しかも、ぺテロのように弱い者が用いられると言う歴史的な画期的な出来事、それがペンテコステの意義であります。わたしたちの教会も、そのことを正確に捉えたいと思います。

【2】
  今日は、ペンテコステの次の主の日であります。前回に続きまして、イザヤ書33章1節〜24節までをお読みしました。「聖霊を信ず」とは、聖書の言葉が、神の言葉として語り出すことを、待つと言うことであります。イザヤ書33章は、28章から32章に続く、「アッシリアのくびき」といった一区切りの締めくくりの箇所であります。
  33章は、礼拝で語られたものが、集められております。グンケルは、「予言的典礼」と名づけました。礼拝でこう述べられたのだ。このように思いますと、ここに述べられている言葉に親しみが湧き、導かれやすくなるのではないでしょうか。講解説教を主題説教的手法で行えるだろうか、と思っております。
  1節〜6節は、「救いを求める祈り」であります。1節は匿名の滅ぼす者であります。その者は災いである。それに続く2節〜4節は、民は困窮しているから、お恵みくださいとの祈りであります。5節〜6節は、神の恵みである介入が積極的に宣言されます。そして「主を畏れることは宝である」と結ばれております。

【3】
  これは一つの礼拝で用いられたものでありましょう。第2の区分の7節〜16節は、「正しい者を守られる神」が告げられています。「嘆き」ですね。侵入軍の協定のための「平和の使者たち」は、協定が敵によって破られたことを嘆きます。
  「大地は嘆き、衰える」(9)とあります。パレスチナの全地が国家の危機に同情して共に嘆き悲しむことが歌われています。その中で助けを求める叫びが、しるされております。10節〜16節は、主の答えを示しております。主が祈りに応えて、「立ち上がり」(10)奮起し、敵の計画は、かえって己を滅ぼすに至るだろう(11)。
  14節〜16節は、主がエルサレムを救いたもう驚くべき御業が、ユダの人民にいかなる結果をもたらすかが述べられています。「神を無視する者」(14)、背教者は滅ぼされるが、「正義に歩み、正しいことを語る者」(15)、は祝されます。敵の包囲にあっても食糧に窮することはない(16)。これは苦しいときの礼拝の言葉でしょう。悔い改めよ。神は正しい者を守られるという慰めの言葉でしょう。

【4】
  第3区分。17節〜24節では、メシヤ的王のいます未来のエルサレムの平和の有様が描かれています。「主はわれらの王」(22)とありますが、これが中心であります。17節のあなたの目は麗しく装うた王を仰ぎとありますが、これは現在のヒゼキヤ王と照らして、未来の理想的な王を指しております、「シオンを仰ぎ見よ」(20)。
  「あの傲慢な民をあなたはもはや見ない」(19)。平和なエルサレムを見るであろう。「その杭は永遠に抜かれることはない」(20)。シオンを見よ、エルサレムが永遠に揺るぎない神の都となる。そして安全のこととして川のことに言及されています(21)。そしてそこには、病人はおらず、民はみな、罪を赦されております(24)、と結ばれております。再臨の主を仰がしめる箇所であります。
  イザヤ書33章は、いくつかの礼拝で用いられたものが集められている、と申し上げました。しかし、共通していることは、「悪は強い。しかし、神の守りはより確かである」ということであります。わたしは今日、「主を畏れることは宝である」を表題とさせていただきました。わたしの解釈は、「聖書をよくよむことが宝である」ということであります。

【5】
  「宝である」を、他の訳の聖書を見てみますと、「そのたから」。その人の宝と訳したり、「その国の宝である」という訳もあります。新改訳聖書は、「主を恐れることが、その財宝である」と訳しております。「恐れる」とは、畏敬と信頼を献げることでありましょう。自分を生かす言葉であることを知ればよいと思います。
  イザヤ書では、エルサレムについての言及が多くあります。今日ご一緒に読んだ33章にも、シオン(エルサレム)という言葉が(アリエルを含み)、5節、7節、14節、20節と沢山あります。エルサレムを大切にすることは、礼拝を重んじることであります。「主を畏れること」、礼拝を大切にすること、神を主人公にすることは、「宝である」となります。
  宝というイエスを、「宝を天に積みなさい」(マタイ6:20)を想い出します。五郎先生は表札代わりにこの聖句を門にかかげていました。弟の友達などは「献金をしなさい」といわれているようであの前は通りたくないと、言っておりました。しかし、五郎先生の主旨は、「所有からの自由」ということであったと思います。五郎先生は聖フランシスコを尊敬していました。

【6】
  所有から自由になり、主人公のおっしゃるように、その富と宝を用いることでありましょう。しかし、これは大変難しいことであります。聖霊が下り、「バルナバと呼ばれていたヨセフも、持っていた畑を売り、その代金をもって使徒たちの足元に置いた」(使徒4:36)。初代教会は、皆、所有から解き放たれていました。
  「雨も雪も、ひとたび天から降れば、空しく天に戻らない。それは、大地を潤し、食べる人の糧を与える。そのように、わたしの口から出る言葉も、むなしくは、わたしの元に戻らない、それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザヤ55:10、11)。
  神の口から出る言葉、「主を畏れることは宝である」。この言葉をしっかりと胸におさめて、それぞれの使命を果たしていただきたいと思います。キュックリヒ先生(以下K先生という)は1976年1月2日(昭和51年)今から33年前、突然の死にみまわれました。五郎先生は驚き、「腰を抜かした」。K先生を愛していたと思います。今、ほとんどK先生という人はおりません。

【7】
  ペスタロッチ・フレーベルの、「人は愛するものとなるために教育されねばならない」この精神にもとづいて保育関係に力を注がれました。われわれ6人の兄弟でもK先生を立派な人と敬うものはおりません。恥ずかしいことであります。しかし、K先生は礼拝を大切にし、侮ゆる者を迎えるイエスに固着していました。今、福音の中にK先生は生きていると思います。
  「静まって、我の神たるを知れ」(詩篇46:10)。「力を捨てよ、知れ、わたしは神」(共同訳)。「やめよ、わたしは神であることを知れ」(新改訳)。武器を取ることをやめる、恵みの神を、神とする。「あなたのほかにわたしの幸いはありません」(詩篇16:2)。K先生の「祈り」:「わたしは小さい者です。心を清めてください。その心にイエスさまの他にはだれでも住まわせないでください。」
  イザヤ書の三つのポイント・メッセージ(6章)。神が個人に出会うところでは次の三つのことがあります。第一は、神は聖なる方として出会う。第二は、人間は神の前に立つとき、造りかえられる必要がある自分を見出すということ、第三は、造りかえられた人間は神から使者として派遣されるということであります。K先生は神から派遣された人である。この認識がわれわれのK先生の思いを変えるでしょう。眠っていると見える期間が、やがて活発化されるでしょう。

【結】
  み言葉とみ霊の導きにより、「全体の見通しが変わる」ということが大切であります。エルサレムに川はありません。しかし、神が川とあります。「主を畏れることは宝である」、この言葉を通して「主と直結することは、宝である」(岩井睦美)。自己と世界を発見して参りましょう。聖書の言葉をイメージ化して捉えてまいりましょう。神に祈祷を献げます。祈ります。

【祈り】
  主イエス・キリストの父なる神、み名をさんびします。生きるということは、肉に生きることではなく、霊に生きることであります。この世で生きることではなく、霊に生きることであります。この世で生きることではなく永遠の中に生きることであります。神の救いのみ業のもとに豊かに生きることなのであります。その恵みを小さくしてこの世的に生きてきたことを懺悔します。罪人に駆け寄っていき無言で抱きかかうる神を、心からほめたたえます。この世に住みつつ永遠に生きる喜びを与えてくださり、感謝します。困窮者、病者、悲しめる者に、救いと慰めと、生きる喜び、生きる力を注いでください。また6月14日の加須市長選挙を祝してください。み名によって祈ります。
アーメン!!
ラベル:イザヤ 説教
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2009年05月03日

5月3日藤崎信師「たじろがず われ信ず」イザヤ書32章1節〜20節

【序】
  「やがて5月に」と言う希望の月を迎えました。「緑の伸びる朝」(伊藤整)、新緑のまばゆい季節、世間がゆったりとした海のように開かれた感じであります。人々が、ゴールデンウィークと走る最中、わたしたちは招かれて、礼拝に集っております。

【1】
  ひっそりとした礼拝であります。しかし、「ここに神います」(一コリント14:25)と言う礼拝を献げさせて頂きたいと、思います。先週は久保田治孝さんがお話をなさったようであります。皆さんはうかがったと思います。わたしはお聞きしませんでしたが、わたしの感想は、「お上手に出来ました」と、言うことであります。
  それは、「われ聖霊を信ず」と告白していた通り、聖霊の働きがあったと確信するからであります。久保田さんは、「先生!そのために祈ってください」と、わたしに祈りを依頼されました。神は交わりを生み、共に助け合う霊をお与えになっております。「聖霊を信ず」と言うことを、わたしたちは明確にしたいと思います。
  「祈りは、愛に具体性を与える」(鈴木俊郎)。空車ほど騒がしいものはありません。そのような祈りでなく、愛の実を結ぶ祈りを献げたいと、思います。如何でしょうか。己を捨て、人生に体当たりをした女性がおります。その一人にG・E・キュックリヒという方がおり、K先生は「人は愛するものとなるために教育されねばならない」と主張しました。次回はK先生のことを語りたいと思います。

【2】
  今日は、前回に続きましてイザヤ書32章1節から20節をお読みしました。中心は、「神の霊の働き」と言うことではないでしょうか!教会は今、ペンテコステに向かっております。15節に、「ついに、我々の上に霊が高い天から注がれる」四面が壁に囲まれたような所、しかし、高いところに窓があってそこから光が射し、そこより神の霊が注がれるのであります。
  32章を三つに分けて説明します。1節〜8節は、「正しい王の支配」であります。公平なよい政治のことが予告されています。2節の「風を遮り、雨を避けるように、また水のない地を溢れる水路のように」は、王たちは、国民のための保護所、慰安所となる、と言う意味であります。それだけでなく3節には霊的に聾盲者がなくなるとあります。
  1節〜8節は、「一人の王が統治し」(1)、人民のよき保護者となって平和と安全を与えると言うことが、述べられております。それに対して9節〜14節は、「憂いなき女たち」の姿が、描かれております。「安んじている女たち」(10)これは収穫祭に浮かれている女性たちをさすのでしょう。「一年余りのときを経て、慌てふためく」(10)とあります。

【3】
  それは、「腰に粗布」(11)をまとえと勧告されています。イザヤはかつて3章において、「主は飾られた美しさを奪われる」(3:18)と批判しましたが、ここでも婦人たちが着飾っていた贅沢な着物を荒布に変えることで、悲嘆を示すことが命じられています。12節以下は、「嘆け」ということであります。
  畑も、町も、宮殿も破壊され、野原となると、言うことであります。ところが15節以下では、自然界の驚くべき変化が告げられています。「ついに、我々の上に、霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり、園は森と見なされる」(15)。ついにとは、神の介入でありましょう。その変化は、超自然的な力によってなされます。
  その時、「荒れ野に公平が宿り、園に正義が住もう」(16)。これまで争議や圧迫の対象となった田畑が、正しい支配の下に正義公平によって審かれます。そして、正義が行われる結果は、平和と平安と信頼であることが力強く述べられております。19節の「森」はアッシリヤをあらわし、「町」はアッシリヤの首都ニネベを現すと言う注解書もあります。20節は18節の続きであります。

【4】
  このように15節〜20節は、「祝福」であります。「園に正義が住もう。正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である」。わたしはこの信頼心の美しさに負けて、思わず瞼をつぶるものであります。そして、再び目を開いて、戦後60余年を省みたいと、願うものであります。
  1節〜8節にあるように、戦後の日本は、平和憲法のもと、よい政治、公平な政府によって今日に至りました。まさしく、平和憲法は日本人にもったいないものであります。これを「正」としますと、「反」と言うのは9節〜14節にあるように、「安んじている女たち」であります。
  これは女性たちだけではありません。現状に「ハイハイ」と言って、何の問題も感じない風潮、そういう空気。宗教学者までもが「無宗教がよい」と言って礼賛しております。キリスト教だ、イスラムだと戦うより、日本人の無宗教が世界を救うと、書いてあります。このように、「教育の不在が」、「正」に対する「反」であります。

【5】
  「一年余りの時を経て、お前たちは慌てふためく」(10)、今日の日本は、ただしいことが教えられていません。神を畏れ、人を畏れるという人格教育が行われておりません。戦後60年、平和であった。しかし、国家に強く帰属することは、キリストに帰属することが、それだけ弱いと言うことになると思います。
  愛国心教育が叫ばれています。聖書の愛国心とは、この国を神をお喜ばせる国にするという愛国心であります。経済成長とは、神が不要な社会を作り出すことになっていったのではないでしょうか。国も、社会も、教会も、神の前に悔改めることが求められています。「一年余りを経て」とありますが、そんなに長い時ではありません。
  わたしは戦後60余年、今日の招きの言葉にありましたように、「壷の粉は尽きることがなく、カメの油はなくならない」(列王記上17:14)と言う不思議な守りにあったと、思います。この驚くべき守りにして、浮かれていると言うのが現状と思います。経済成長によって、教会は、骨抜きになったのではないでしょうか。

【6】
  今日キリスト教の最大のものは、信仰の不確実さ、確認の詰めの甘さ、信仰者としての自己確認、アイデンティティーの喪失であります。信仰の確かさはみ言葉から来ます。神は確かであり、確かなみ言葉を差し出してくださる。み言葉が確かであるから、信仰も確かにならねばなりません。
  今日は、交読文で詩篇62編を交読しました。「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」(1)とあります。沈黙してとは、イザヤ書の言葉で言えば、「静かに」して、となります。「落ち着いて静かにしていなさい。恐れることはない」(イザヤ7:4)。パウロが初めてヨーロッパに渡り、フィリピにつきました。
  「ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神を敬うリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女も家族の者も洗礼を受けた」(使徒言行録16:14〜15)とあります。沈黙して、ただ神に向かう者の心を、「主が開かれる」のであります。静かにしています。御声を聞かせてください。であります。パウロはどんな話をしたのでしょうか。

【7】
  福音を語ったと思います。キリストがわれわれのためになされた一切は福音として知らされています。「信仰により恵みにより」という力ある恵みがわたしたちを義とし、救う。だから、知ったことについてパウロは、またリディアは信じたのであります。リディアを通してフィリピ教会は建てられたのであります。福音が正しく語られ、その次に御言葉のもとへと神の民の結集が行われ、その民らが教会を整えてと言う順序であります。
  「ついに我々の上に、霊が高い天から注がれる」。復活は、神が歴史の中に介入なされた全く新しい事柄であります。復活の主イエスに、信頼して歩んでまいりたいと思います。復活の主イエスが教会の頭であります。福音とは、イエスがわたしたちのためになされた一切をさします。わたしたちの労苦を主は背負ってくださっています。
  その事に励まされて、再び自分の足で歩むように努めたい、と思います。一人で歩んでいたようですが、後から気づくことは、復活の主が共に歩んでくださったと言うことであります。5月27日はJ・カルバンの召された日であります。彼は、死によってキリストに出会った、と、わたしは思っております。死によってキリストと出会うことができる、終わりの日の祝福が今、わたしたちの慰めとなるような礼拝を持たせてください。

【結】
  「一瞬も、一生も美しく、そしてみ言葉を運ぶ器」として用いられたい。このように、新年に祈りました。み言葉を運ぶ器として、内容がスッカリ明らかになるように、そのようにたじろがず、われ信ずと、告白したいと思います。神に祈祷を献げます。祈ります。

【祈り】
  主イエス・キリストの父なる神、み名をさんびします。ゴールデン・ウィークを楽しんだすべての人を祝してください。また、父よ、わたしがあなたのご臨在を忘れて孤独を経験している時、あなたがわたしたちすべての父であることを思わせてください。また日常性に埋没せず自分が救われた自分であることに新鮮な感動を失わないように、キリストに目を向け、その果たされた業を見、そこから「教会を信ず」と告白させてください。み名によって祈ります。
アーメン!!
ラベル:イザヤ 説教
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2009年01月04日

09年1月4日藤崎信師「われらの喜び」イザヤ書28章1節〜29節

【序】
  新年おめでとうございます。本年最初の主の日の礼拝を献げる喜びを、心から感謝するものであります。「ハレルヤ。天において主を賛美せよ。日よ月よ、輝く星よ主を賛美せよ。地において主を賛美せよ。若者よ、乙女よ、老人よ、幼子よ、主の御名を賛美せよ」。
【1】
  この詩篇148篇を歌って、新しい年を迎え、祝いあいたいと、思います。賛美は事を一変するのであります。心を高く上げて、ハレルヤと叫び、新年、新誕生、新日本を祝いたいと思います。ベツレヘムの馬小屋で幼子イエスを拝んで歓喜に満たされた三人の博士たちの事を、思い出します。
  彼らは、「別の道を通って自分たちの国へ帰っていった」(マタイ2:12)のであります。わが国も従来の道でなく、新しい道、新しい生活に進まねばなりません。新しい年を迎えて、わたしどもの行くべき新しい道は、主に仕え、主を賛美する道であります。その時、あふれる歓喜が待っています。
  先程、詩篇100篇を交読しました。「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ、喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。感謝の歌を歌って主の門に進み、賛美の歌を歌って主の庭に入れ、感謝をささげ、み名をたたえよ」。そのように、主の門に進み、主の庭に入って、み名をたたえましょう。「天よ、主を賛美せよ、地よ、主を賛美せよ」であります。
【2】
  今朝は前回に続きまして、イザヤ書28章を輪読させていただきました。イザヤ書の黙示録(24章から27章)が終わって、28章から31章は「アッシリヤのくびき」であります。これはイザヤの後期の予言であります。今日、お読みしました28章は「死と立てた契約」という処であります。これは、『寝床が短かすぎて」(20)、役に立たないと言うものであります。
  1〜13節は、「審判」です。14〜22節は、「シオンの隅の石」であり、終わりの23〜29節は、「農夫の知恵」ということであります。28章1節、「災いだ、エフライムの酔いどれの誇る冠は」。災いだ(ホーイ)という感嘆詞で、28の1、29の1、30の1、31の1、で始まり、編集者は、そのような意図でまとめております。
  28章1節〜6節、「サマリヤの陥落」で、「誇る冠は踏みにじられる」(3)。こういう表現は「ギリシャ的」ヘレニズムの影響を受けている(関根正雄)と言われます。サマリヤは滅ぼされるが、「残りの者」(5)は「輝く花輪」となり、神から勇気が与えられ、世界にもそれを及ぼす「力となられる」(6)と、あります。
【3】
  7〜13節は、北王国のサマリヤの酔いどれが滅ぼされたように、南王国のユダの「彼らもまた、濃い酒のゆえに迷う」(7)のであります。9節以下はその酔う者どもが、イザヤを嘲笑するのであります。イザヤは、「乳離れした子」(9)に話しかけるように、戒め「ツァゥ・ラ・ツァゥ」と言っている。まことにおかしなことだといっています。教師が生徒にいろいろ繰り返すように、母親が乳幼児に、バーバーと言うように、審きを告げるイザヤをつまらぬことを言うと揶揄するのであります。
  しかし、「主が彼らに言っておられたことは、『安息』である。しかし、彼らは聞こうとしなかった」(12)。「それ故、彼らが馬鹿にしていた言葉が、逆に彼らに臨んで、ツァゥ・ツァゥが実現して、罠にかかって、捕らえられる」(13)。1〜13節は、このようにして「審判」が述べられています。
  第2区分の14〜22節は、「シオンの隅の石」であります。エルサレムを治めるものは「我々は死と契約を結び」(15)。「洪水が来ても我々には及ばない。」と、こう言います。政治家たちの大言壮語に対する主の答え。それは全世界を治めたもう主に信頼する信仰であると言うことです。「わたしは一つの石をシオンに据える」(16)。
【4】
  この石は試みを経た石、尊い隅の石と言われているが、これは主に対する絶対不動の信仰を表徴したものであります。主に信頼する信仰は最大の力であります。この言葉は、新約聖書において、キリストに適用され、またキリストによって実現されたものと解されています(ロマ9:33、10:11、1ペテロ2:6〜8)。
  17節は、主の建てたもうすみかは信仰を基として、隅の石とするばかりでなく、公平と正義の基準に合格したものである、と言うことであります。そうでないものは空しく不完全で、神の審判に耐えないことを現します。18節は15節の政治家たちの大言壮語は、神の審判が臨むとき、全く虚偽であることが実証されると言うことであります。
  「死と結んだ契約」(18)を、エジプトとの協定とすると、エジプトは助けず、「洪水」と言うアッシリヤに「踏みにじられる」と言う風に解釈されます。そうなると「ただ恐怖でしかなく、寝床は短かくて役に立たない」(20)、安全と考えていたことが、実際に当たって何ら役に立たないことを、譬えで言い表しています。
【5】
  21節は、かつてヨシュアやダビデの時、主はイスラエルのために立たれたが、今度はユダの政治家や人民を罰するためにたてられるということであります。「今、嘲ることを止めなければ」(22)と言ってイザヤは、「定められた滅びについて聞いたこと」を率直に告げたのであります。
  第3区分の23〜29節は、「農夫の知恵」と言うことであります。これは、主がその民に対する意思をいかに行いたもうかを説明したものであります。「農耕」、「種まき」、「脱穀」を行うが、「砕きつくすことはない」(28)とあるように、刑罰はいつまでも続かないと言うことであります。
  農夫のたとえで、神の多様な行為を説明するのですが、神は一様に振舞われない。主は撃たれるがまた癒される。「主の計らいは驚くべきものである」(29)と言うのがその結論であります。イザヤ書28章は、一言で言えば「語れ!」といわれたことを語り、書き記したものであります。学ぶべきこと反省すべきことは、「語れ、と言うことに食欲も起こらない」と言うことではないでしょうか。
【6】
  イザヤは徹頭徹尾、信仰の預言者であります。その初期にあたり「落ち着いて静かにしていなさい。恐れることはない」(7:4)、30年が過ぎても同じであり、「静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(30:15)と、信仰に終始しております。
  イザヤの神は、「聖なる神」であります。すべてを超えた神であります。この聖なる神はセム族一般の信仰でありますが、預言者のそれは倫理に結びついております。今日学びましたように、「隅の石」は、「正義と公平」と合致したものでなければ空しくなります。この唯一の神は「ゆるやかと流れるシロアの水」であります。
  詩篇第1篇に、「流れのほとりに植えられた木は、時が巡りくれば実を結ぶ」(3)とあるように、神の臨在こそ、彼らの唯一の救いであります。その水を拒んだとき「大川の、つまりユーフラテスの水で溢れる」(8:5〜8)のであります。エジプトとの同盟は間違いであり、再び信仰に立った平和と信頼の政策を行え。ヤーベの臨在こそ、唯一の基盤であり、「信じる者は慌てることはない」(16)と、今日教えられました。
【7】
  終わりになって、わたくし事を述べますが、一枝さんは膵臓がんといわれますが、腎臓をよくすることがそれには大切であると、血液検査から彼女は学んでおります。また医学書を読んでおります。病むことも学びであります。わたしにも課題があります。鈴木俊郎先生の本を出す事、もう一つは書斎の整理であります。書斎の整理が先だと、一枝さんの学びから教えられています。
  そして、(1)、人に任せず、必ず「自分でまとめよ」。(2)、聴き上手、褒め上手になりなさい。(3)、自分の為に、金を使え。この自分のために金を使って、書斎の整理をし、鈴木先生の本を出したい、と思っています。しかし、鈴木先生は内村鑑三伝のあれほどのたくさんの資料を持っていながら、出さなかったのであります。
  その意味をよく考えて、被造物神化の峻厳な拒否を徹底していきたい、と思っています。偉大なる否定のないところに、偉大な肯定も生じません。イザヤは神の前に全く自己を投げ出し弱かったから、この世に強くあったのでないかと思います。キリスト教は、日本にあっては、全く新しい異質の救済を示すのですから、打って出るには勇気がいります。
【結】
  「勇気こそ地の塩なれや梅真白」(中村草田男)。イザヤは、人を信ぜず、ただ神を信じた、と思います。聖なる神、イエス・キリストの父なる神の臨在こそ、唯一の救いであります。この神を賛美することによって、一瞬にして世界は変わります。自分が好きになるのであります。神に祈祷を献げます。祈ります。
【祈り】
  主イエス・キリストの父なる神、み名を賛美します。「主を求める人よ、心に喜びを抱き、主のみ力を尋ね求め、常に御顔を求めよ」(歴代上16:10から11)。魅力あるこの市川の地において、御顔を求めて礼拝に参加することが許されました。感謝であります。「一瞬も、一生も美しく」。こういう一年でありますように願います。そのために、「我らの喜び、安きは主にあり」と、キリストの臨在を常に受けて、家族と教会の交わりが平和でありますように祈ります。病者、困窮者に慰めを与えてください。また慰めを運ぶ器となって、この一年を過ごさせてください。み名によって祈ります。
アーメン!!
ラベル:イザヤ 説教
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2008年12月07日

12月7日藤崎信牧師「その日・大いなるその日」イザヤ書27章1節〜13節

【序】
  12月になりました。わたしにとりまして、聖望キリスト教会において、本年、最後の主日礼拝となりました。しかし、わたしに取りまして、最後は最初であります。数名による最初の聖望キリスト教会の礼拝を思います。そして、天の国での最初の礼拝に憧れるものであります。「ハレルヤ。天において主を賛美せよ」(詩篇148:1)。
【1】
  主によって、新しい賛美が与えられることを希望します。「ハレルヤ。聖所で、神を賛美せよ」(詩篇150:1)。わたしにとって、今日の礼拝は、今申しましたように聖望キリスト教会における今年最後の礼拝日であります。過去を感謝し、未来を展望し、そして上を見上げて、心から神のみ名をほめたたえましょう。後を見、前を見、そして上を見上げましょう。
  一昨日、雨を突いて夕刻、久美愛教会の婦人が尋ねてきました。「一枝先生の元気なお顔を見て安心しました」と申されました。それほど一枝さんは弱っております。本当にやせ細っています。しかし、わたしにとって弱い一枝さんと共にいるくらい至福のときは、ございません。聖書に親しみ、共に祈り、み名を賛美しております。今日は結婚記念日であります。神の見える祝福を感謝します。
  したがって、何の心配もありません。わたしたちは、「万事が益となるように共に働く」(ロマ8:28)と言う未来に向けて生かされております。今日、一枝姉妹は皆さんとご一緒に礼拝を守りたいと、しきりに願っておりましたが、とてもかないません。皆様によろしくとのことであります。離れて祈りにおいて、心において、交わりたいと願います。そのように教会から離れている人々に、上からの慰めを祈ります。
【2】
  今日は前回に続きまして、イザヤ書27章を輪読いたしました。27章は、いろいろな断片が集められているようであります。わたしは、「その日」にポイントを定めて説教をさせていただきたい、と思っております。「その日、主は強い剣をもって逃げる蛇レビヤタン、曲がりくねったレビヤタンを罰し、また海にいる竜を殺される」(1)。
  レビヤタンは海の怪物であります。一般に「逃げる蛇レビヤタン」はアッシリヤ、「曲がりくねる蛇レビヤタン」はバビロニア、「海にいる竜」はエジプトと理解されています(旧約略解)。神の審判が宇宙的である、と前章の結論として付け加えられます。2節から6節は、「主のぶどう畑」であります。
  神はイスラエルを「夜も昼も見守る」(3)とあります。これは5章5節から6節で述べられた神の怒りが過ぎ去ったことを意味し、「わたしはもはや憤ってはいない」(4)と、はっきり宣言されています。「茨とおどろをもって戦いを挑むもの」は外敵ではなく、イスラエルにあって神に逆らう者のことであります。「焼き尽くす」とあります。
【3】
  だからこそ「そうではなく、わたしと和解するがよい」(5)と、神との和解が求められております。イスラエルが神と和解し、悔い改めて神に従うものとなることにより、6節に描かれた状態に「時が来れば」なるのであります。見事なぶどう畑になるかどうかは、イスラエル自身にかかっておるということでしょうか。
  9節から11節までは「贖い」であります。「主は、彼らを撃ったように撃たれたか」(7)。神がアッシリアを撃った様にイスラエルを撃たれるのか。そうではない。捕囚という「追放」(8)と言う経験を通して、「贖われた」(9)のであります。刑罰を経験し、神と和解することにより、その咎が贖われ、罪が除かれ、その結果、主に立ち返り、他の神々を信仰することがなくなります(9)。
  10節の「城壁に囲まれた都は孤立し」とあるのは、和解の機会が与えられたのに関わらず(5)、「城壁に囲まれた都」の人々はそれを理解することは出来なかった。「全く分別のない民だ」(11)。それゆえ、神は「憐れみをかけず」災いを下す。この都がどこかは不明ですが、サマリヤのことでしょうか。
【4】
  わたしは第2区分の7節から11節を「主の刑罰とイスラエルの悔い改めの希望」と言うふうに受け止めたいと思います。終わりの12節から13節は、「イスラエルの回復」であります。終わりの日に捕囚で連れ去られたイスラエルの人々が神によって、「ひとりびとり拾い集められ」(12)、エルサレムで神を礼拝することが明るく告げられております。
  これは24章から27章の「イザヤの黙示録」の結びをなす言葉であります。「その日が来ると大きな角笛が吹き鳴らされる」(13)。わたしはこの言葉「角笛」に促されて、今日ご一緒に読んだ所を三つの角笛として吹き鳴らしたいと思います。一笛は「その日」であり、二笛は「悔い改め(和解)の希望」。三笛は「礼拝する未来」であります。「その日」「希望」そして「礼拝」と言う順序で笛を鳴らします。
  第一笛は「その日」を知るものとなることであります。わたしたちの救いの保証は自分の側には何もありません。ただひたすら信じて従うこと以外に、どこにも確かさはありません。キリスト者が常に忘れてはならないことは、自分は弱い罪人であると言うことであります。罪を知らないと言うことも、実は罪のせいであります。
【5】
  「球根の中には、花が秘められ、さなぎの中から、命羽ばたく、寒い冬の日春はめざめる。その日、その時を、ただ神が知る。命の終わりは命の始め、恐れは信仰に、死は復活に、ついに変えられる、永遠の朝、その日その時をただ神が知る」(賛美歌575番)。「その日」を、わたしたちは、知ることは出来ませんが、神がご存知であることを信じて歩ませていただきましょう。
  第二笛は、「希望」であります。今日、イザヤ書によって「わたしと和解するがよい」とのみ声に接したのであります。第二コリントには、「神はキリストを通してわたしたちと和解させ」(2コリント5:18)とあります。神様との和解を信じて、悔い改めるのであります。
  信じて悔い改め(方向転換)るのであります。「恵みを安価なものにしてはなりません」。めぐみを知って、悔い改める。その順序を正しく知って、日々悔い改めて、赦しの喜びを新鮮にさせていただきましょう。自分の罪を知るならば、罪からの唯一の救い主であるイエス・キリストに無関心ではおられません。
【6】
  「悔い改めの希望」。これが第二笛であります。第三笛は、「礼拝すると言う未来」であります。詩篇72編に「すべての王が彼の前にひれ伏し、すべての国が彼に仕えますように」(72:11)と、歌われております。マタイの福音書には、学者たちが東の方からエルサレムに来て、「拝みにきた」(マタイ2:2)とあります。象徴的な出来事であります。
  今日は第二アドベントであります。第三アドベント・第四アドベント、と星に導かれて、礼拝をする未来へと、世界が、この国が、そしてわたしたちが導かれるように祈るものであります。聖望キリスト教会から天に召された人々と、礼拝を共にすると言う未来へと、喜びを一つにしたいと思います。
  終わりになりましたが、今日ご一緒に読んだテキストを更に一点に絞り、それをメッセージにしたい、と思っております。「その日」とは、イエス・キリストに出会う日であります。その日こそ、大いなる日であります。「疲れた人は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ11:28)。
【7】
  唯一つの偉大さとは、自分の利益を求めない愛であります。何事も、愛にとって困難なものではありません。「休ませてあげよう」とは、静かにしていることではなく、愛に生きることであります。降誕節を迎えるにあたり、はっきり言える事はイエス・キリストが、わたしたちが目指す人間像であります。「わが愛におれ」(ヨハネ15:9)。そうしたいと思います。
  主イエスは、「信仰の創始者であり、完成者」であります(ヘブライ12:2)が、また「わたしは柔和で謙遜の者」(マタイ11:21)だからと、言われます。柔和であることは、相手に対して優しさ、思いやりを持つことであります。もし親子の間にこの柔和ということがあれば、親子の対立は起こらないでしょう。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます」(使徒6:31)。主イエスの柔和さにあずかっていかましょう。
  また謙遜とは神の前に、黙って服従することであります。犠牲や苦痛があっても、それが主の御心であるならば、それに耐え、黙って従うのをむしろ喜びとする、それは真に神の前にへりくだった者のみがなしうる業であります。「我に来たれ」。天のキリストに抱かれる「その日」。それを大きな日としたいと思います。
【結】
  クリスマスを間じかにしたこのアドベントの日、「疲れたもの我に来たれ」。この真実な声を聞きましょう。わたしはモーツァルトではないですが、魔笛を吹き鳴らしましたが、わたしは、イエスのくびきを負って、柔和にして心のへりくだったものとなって、真の平安を得たいものと、心から願うものであります。神に祈祷を献げます。祈ります。
【祈り】
  主イエス・キリストの父なる神、み名を賛美します。現代人は、みな疲れています。わたしも説教の重荷を負って、あえいでいる一人であります。どうかみ声を聞いて、生きる者にならせてください。今日を「その日」として見えるものでなく、見えないものに目を注がしてください。そして、愛に生き、み言葉を運ぶものとなって、教会を建てる一員にならせてください。イエスと向き合い、そこから流れ出る希望に、愛に、そして命に与らしてください。この祈りを主のみ名を通してみ前におささげします。
アーメン!!
ラベル:説教 イザヤ
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2008年11月02日

11月2日藤崎信師「どこまでも主に信頼せよ」イザヤ書26:1〜21

「どこまでも主に信頼せよ」(イザヤ書26:1節〜21節)

【1】
  10月2日(木)、加須市議会で一市三町の合併を決議した。民意を聞かない決議に問題を感じています。10月25日(土)、愛の泉63周年の記念日、長い時間前に座らせられて腰が痛くなる。翌、26日腰痛を押して姉(恵子さん)と共に弓町本郷教会に出席。翌27日教かい事業協力会。やっと教団傘下に入られたので、使命を果たしたのでこの仕事から離れたい。
  10月29日(水)、久美学園評議委員会。入札で物価高で10社のうち合致するものなし」この日、予算を追加して、「恵み寮」の建築を五億七千万円で決める。来年7月に完成。これを機に評議委員会を辞めたい、と思っています。教団の関係も、その他のこともやめて、更に自由に生きたいと、自ずからに期待しています。
  恩師鈴木俊郎先生が「打って出なさい」とよく言われましたが、コツコツやってきたことから飛躍して、躍り出たいと思っております。しかし、そんなことは出来るでしょうか、「長生きは生の芸術」です。素朴な福音に立ち帰って、単純な神の栄光を現す生活に入って参りたい、と願っております。ご加祷を乞います。
【2】
  今日は、前回に続きましてイザヤ書26章1節〜21節を輪読いたしました。イザヤの黙示録(24章〜27章)と言うその一部分であります。自分にとってキリストとは何か。覆いを取ってそれを少しでも明瞭にすることができれば幸いであります。
  わたしは、「キリスト教は喜びの宗教」である、と思っています。イザヤ書26章は「信頼と賛美と瞑想の詩篇である」(G・Eライト)とあります。もし詩篇であるならば、わたしたちはそこから慰めと希望を受け取ることが出来ます。ルターは、「信仰の消息を知りたいと思うなら詩篇を読め」と、勧めました。ありがたいことであります。
  1節〜6節において、「信頼」を学び、7節〜21節において「希望」と「瞑想」について学びを深くしたいと思っております。「その日には、ユダの地でこの歌がうたわれる」(1)。その日とは、主がユダの人民に勝利を与えたもう日であります。「我らには堅固な都がある。救いのために、城壁とほう塁が築かれた」(1)。
【3】
  エルサレムを真に防護するものは、物質的石垣だけでなく、主の超自然的な救いであります。「あなたは平和を守られる、あなたに信頼するゆえに」(3)とあります。主に信頼する者に、主は平安を与えたまいます。
  8月に、わたしはあるところで、「人生の始めと終わり」という説教をいたしました。人生の始めの前にすでに御心があり、その終わりとその先にも祝福があります。それが説教の主旨であります。人生というその短い歴史を導くばかりでなく、それを超えて主の慈しみがあります。信頼するとは、その限りなき恵みに対して信頼すると言うことであります。
  「どこまでも主に信頼せよ。主こそはとこしえの岩」(4)文語訳聖書には、「汝ら、常盤にエホバにより頼め」とあります。「とこしえの岩」とは、永遠に変わることのない「よりどころ」を意味します。よりどころがしっかりしています。信頼し、平安を得て、とこしえの命を喜び、賛美いたしましょう。
【4】
  7節以下は、神が人々になしたもうことが記されています。「神に従う者は平らかです」(7)。「主よ、わたしたちはあなたを待ち望みます」(8)。ローマの信徒への手紙5章に「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(5:4)とあります。練達とは複雑な心でもなく、神の恵みを知り、神に自分を託することにおいて熟達した人のことであります。
  「まっすぐにされた道」(7)に、自分を託することが信頼であります。9節に、「あなたの裁きが地に行われるとき、世界に住む人びとは正しさを学ぶでしょう」。確かに学ぶ人は多いと思いますが、学ばない人も少なくないのであります。「主よ、平和をお授けください。わたしたちのすべての業を成し遂げてくださるのはあなたです」(12)。
  平和はシャロームです。シャロームとは、満ち満たされる喜び、活動の姿をさします。神の平和が、すべての業を成し遂げてくださいます。「マリアは男の子を生む。その子をインマヌエルと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1:21)。時満ちてみ子を通して、「神共にいます」が実現します。実に、「すべての業を成し遂げてくださるのはあなたです」と、わたしたちは賛美したいと思います。
【5】
  「主よ、苦難に襲われると、人々はあなたを求めます。あなたの懲らしめが彼らに臨むと彼らはまじないを唱えます」(16)。実に不思議であります。神を求めながらまた、まじないを求めます。これは異邦人だけでなく、イスラエルの人々もそうでありました。「しかし、それは風を生むようなものでした」(18)と、反省しています。
  そのように、信頼する人は、反省し、失敗を認めることにやぶさかではありません。一昨日の朝刊で、「空自トップ更迭へ」とありました。航空自衛隊トップの田母神俊雄・航空幕僚長が「わが国が侵略国家だったと言うのは濡れ衣」と言う論文のゆえに、浜田防衛省は、31日更迭する意向を表明したのであります。
勝った国の人が終戦と言います。これが正しいのであります。負けた国は当然「敗戦」と言うべきであります。しかし、戦後すぐに終戦と言う言葉が使われたのであります。勝った国と同じ言葉を用いて負けたことを認めない。真に信頼するものを持たない人は、常に言い訳をし、び縫策を行じます。しかし、それでは破れがはなばなしくなるだけであります。
【6】
  16節〜19節では、神との会話が続いております。祈りにおける会話と言うものでありましょう。ユダの民は、子を産む女性のように苦しむが、何も生まないようなものである、と歌われています。しかし、ここで突然歓喜に満ちた叫びが19節に上がり、死者の復活が述べられております。「あなたの死者が命を得、わたしのしかばねが立ち上がりますように」(19)。
この死者の復活は、社会的でおそらく国民の回復を考えています(エゼキエル37章参照)が、同時にまた個人的で、過去の人々が目覚めて、新たなる地のもろもろの喜びに与り得るものであることを示しております。これは旧約聖書では珍しく、中間期に至って最も鮮やかに開花する(ダニエル書12:2参照)概念であります。
この詩の特異な点は、敵の手によって殺された者の復活と言う全く新しい方法で神の救いが示されるようにと、祈っていることであります。信頼する者は、全く新しい方法で救いの示されることを祈ります。イエス・キリストは「わたしは天から降ってきた生きたパンであり、このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(ヨハネ6:51)。このように全く新しい救いの方法が示されます。
【7】
  更に、その先を見ると、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ6:54)。これは聖餐がわたしたちの終末、未来の保証であることを言うものであります。主が甦りの保証であります。
  「塵の中に住もう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます」。「命を与えるのは霊である」(ヨハネ6:63)。わたしたちは、キリストの実体を持たねばなりません。洗礼から聖餐へと歩み、聖餐にたびたび与ることによって、真のキリスト者となり、ついに主と同じ像に化せられるのであります。
  瞑想すべきことは、露が植物を生かすように、神の霊の露が、光の露がわたしたちを生かす、と言うことであります。このキリスト教の秘儀を持って、わたしは世に打って出たい、と思っております。心だけでなく、聖餐を通してキリストの体を、我がうちにあらしめる、そのことにたいして深く、瞑想していかねばならぬと、思っています。
【結】
  今日はいろいろなことを申し上げましたが、「神の愛が、あるべきものにならしめる」。これが、今日の結論であります。どなたにもちゃんと道が備えられています。ですから、どこまでも主に信頼していきましょう。それがイザヤ書のメッセージではないかと、わたしは思います。神に祈祷を献げます。祈ります。
【祈り】
  主イエス・キリストの父なる神、み名をさんびします。「わたしの骨は恐れ、わたしの魂は恐れおののいています。主よいつまでなのでしょう」(詩篇6:4)。わたしたちは深い淵で嘆いております。しかし「主はわたしの祈りを受け入れてくださる」(詩篇6:10)。神よ、祈りにおいてあなたはあなたご自身の恵みとわたしたちを一つにしてくださいます。感謝であります。今、一言の祈りを献げるすべての人の祈りを、お聞きあげてください。み名によって祈ります。
アーメン!!
ラベル:説教 イザヤ
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2008年10月05日

10月5日藤崎信師「平和な未来を告ぐ」イザヤ書25章1節〜12節

「平和な未来を告ぐ」(イザヤ書25章:1節〜12節)
【序】
  十月になりました。秋といえば柿、紅葉が連想されます。しかし、秋といえば虫でしょう。恋人と歩いていて、「虫が鳴いていますね」と言われて、彼は「いも虫ですか」と答える。非常にロマンチックです。しかし、ぶつかり会って調和が生まれるのではないでしょうか。神を忘れていた日々が、み言葉にぶつかりあってふるわれ、癒されるように祈ります。
【1】
  「更け行く秋の夜、旅の空の」と、歌った少年の日を懐かしく思います。一枝さんが具合が悪いので、旅に出ることが出来ません。そこで、わたしは「心の中の旅」を胸にえがいて、「恋しや故郷、なつかし父、母」と歌っております。東京育ちは、故郷喪失者であります。天の故郷を恋うこと一段であります。
  わたしたちは、今も黙祷をささげ、賛美歌を歌い、心を高く上げて、三位一体の神のみ名によって礼拝を献げつつあります。畏れつつ、慕いつつ、み前に進み出ましょう。「今日こそ主の御業の日、今日を喜び祝い、喜び躍ろう」(詩篇110:24)であります。喜び満たされて、家路につくよう、神の祝福を祈ります。
  今朝はご一緒に、イザヤ書25章と黙示録21章をお読みしました。先ほど賛美歌18番で、「終わりの日が来たなら、裁きの座を見上げて、わが力の限りに、こころを高くあげよう」(4節)と歌いました。今日は、その「終わりの日」についてのイザヤの予言の個所を、共に読んだのであります。
【2】
  先ずテキストの説明をし、次に提起された問題を更に進めさせていただきたく思っております。イザヤ書25章の前半(1〜5)は、「神の驚くべき計画」(2)であり、後半(6〜12)は、その驚くべき計画は、「死を永久に滅ぼしてくださる」(8)ということにつながっていきます。最後はモアブの滅亡です。
  第一に、「警醒的」ということを申し上げたいと思います。「警醒」とは、「警告を発して迷いを破り、めざめさせること」であります。一節に、「主よ、あなたはわたしの神」とあります。神は常に、わたしたちの神ですが、「わたしの神」といって、親しく交わることが、また必要であります。ブッチャケた交わりが出来ているでしょうか!
  「あなたは驚くべき計画を成就された。遠い昔からのゆるぎない真実をもって」(1)。それはどういうことか、具体的に述べられておりません。いにしえからの計画が真実をもって成就されたと感謝が捧げられています。4節に、「あなたは苦難に遭う貧しいものの砦」とあります。神は迫害に遭うものをお救いになるということであります。貧しい者とは旧約では、特に詩篇では信仰者を指します。
【3】
  でありますから1〜5節は、「どんな災害時であっても、救い主に賛美を捧げる」。ということでありましょう。別な言葉で言えば苦悩を愛するということ。6〜9節は、メシア時代の大祝宴が述べられております。「万軍の主はこの山で祝宴を開き、よい肉、古い酒、えり抜きの酒を供される」。それだけでなく。
  「すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし」(7)。顔を包んでいた布とは、悲しみを表すものであります。今風に言えばわたしたちの劣等感すべてを取り去る、ということでありましょう。そして悲しみと嘆きの源である、「死を永久に滅ぼしてくださる」(8)とあります。神である主は、「すべての顔から涙を拭う」。そして、これは今日の中心聖句であります。
  「滅ぼし」という言葉は、「呑み込む」という言葉が使われています。6〜9節は全世界の人々がエルサレムの山に呼び集められ、喜びの食卓を囲むという情景でありますが、ここの特徴は、信仰ある者だけでなく、地上に生きているすべての人が、神の国に招かれ、喜びの食卓を囲むと、信じられているということであります。旧約聖書の中で最も開かれた信仰の理解ではないかと思います。
【4】
  最後の「モアブの滅亡」は、エルサレムの山の上の祝福と対で述べられています。カナン進入の時、また、エルサレム陥落の時、モアブはバビロンに加担し、イスラエルを攻撃します。しかし、「すべての民」という予言からすれば、モアブも救いの招きに与っています。神のご計画は、大きく計りしれません。
  こういうことを考えれば、今日のテキストは警醒的であります。わたしたちの迷いを破り、創造者であり、完成者である神を正しく見上げることが大切であります。次に、このテキストから提起された問題を更に深めさせていただきたいと思います。ここの中心は、「感激的」ということであります。
  今日、お読みしましたイザヤの黙示録は、「涙を拭い、死を滅ぼす」という予言であります。「顔覆いをつける」ということの意味は、非常に象徴的ではないでしょうか、顔を隠すことには、納得できないこと、不条理なこと様々なことがあるからではないでしょうか。
【5】
  しかし、神の国の来る時、死の悲しみや、死にまつわる自己の責任、思い残し、過ちなどがすべて神によって呑み込まれてしまい、帳消しにされるでしょう、と予言者は言います。その時、死者を悲しむ顔覆いも必要でなくなります。そうすることによって、どの人も例外なく喜ぶことが出来るのです。
  しかし、旧約聖書の中では、このことは言葉だけであります。このことは、予言者が取り次いだ幻であります。この言葉を新約聖書は二通りの仕方で受け継いでおります。一つは1コリント15章54節、「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次の言葉が実現するのです」とあります。
  着物のたとえを使ってわたしたちの朽ちる体が永遠の命を着るとき、旧約聖書が実現するのであります。「死は勝利にのみ込まれた」。ここにイザヤ書がもっていた「呑まれた」という意味が生かされています。そして、キリストの十字架の勝利の前には、死は呑み込まれ、死の恐るべきとげは、どこにもないとあります。
【6】
  これがイエス・キリストの十字架と復活によって始まった新しい事態であります。イザヤの幻は、主の十字架と復活によって、確実なものになり始めている、とパウロは教えるのであります。もう一つは、黙示録21章です。新しいエルサレムが天から下ってくる時に、イザヤの約束した幻が実現するとそこに述べられています。
  「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや悲しみも嘆きも労苦もない最初のものは過ぎ去ったからである」(黙示録21の3節・4節)。
  ヨハネの黙示録は、迫害の中にあって小アジア(今のトルコ)の教会にあてられた手紙であります。特に、迫害の中で殺された信徒のことで、教会を慰めようとしたものと思われます。ローマ大帝国も古い世界として過ぎ去ります。そして、終わりの時には死もなく、死の悲しみもなくなる。それはまだ地上では実現していないけれども、必ず実現する未来であります。
【7】
  その未来のことを描く時に、イザヤ書の幻が大事な役割を果たしました。メシア時代の大祝宴のうつしであります。感謝のうちに、感激をもって聖餐に与りましょう。ある人は、聖餐に与り、「夜は夜もすがらなき悲しむとも、明日には喜びあらん」(詩篇30:6)が離れがたい聖句となったと、申しております。そういうつながり、経験が大切であります。
  最後になりますが、非常に必要なメッセージを語って終わりといたします。それは「開放的」ということであります。大いなる課題、それは新しい人間を造形することであります。今朝も、ナザレのイエスよ、「わたしにみ言葉を聞かせて下し」と祈りつつ歌いました。ガリラヤのイエスは独り息子を失ったナインの寡婦に次のように話されました。
  「もう泣かなくてもよい」(ルカ7:13)と言われました。神の国が来る時、それが実現します。見方を変えて、死から命を、神の国から現実を見て参りましょう。「生きるのはもはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2:20)。知的でなく心情によるキリストの認識が求められています。「内面的美しさを持つ人物を生み出し、創り出していくことが教会に求められています。
【結】
  李仁夏(イ・インハ)牧師が6月30日、み許に召されました。礼拝に来ない信徒を訪問した。この夫妻は炬燵に入り、うづくまっている。不況になると、真っ先に在日の零細企業は仕事がなくなります。「私も一緒に炬燵に入って話を聞いていると、もう一つの席にイエス様が座っていて、全く同じようにうずくまっておられるのを見た」。李仁夏牧師は、うずくまっている人々のところで、イエスに会われたのであります。彼は生涯「主はうずくまっている人を起こされる」(詩篇146:8)と言う言葉こそ真実であることを証したのであります。
【祈り】
  主イエス・キリストの父なる神、み名をさんびします。「平和な未来を告ぐる」み言葉を、豊かに備え、それをお与えくださり、み言葉にぶつかり、震われて、「兄弟たちを力づけなさい」(ルカ22:32)との大命をいただきました。聖書を、「警醒的に」、「感激的に」、そして「開放的に」読み、学んでいけますように。与えられた自由を、間違いなく、あなたに従う自由として生かしてください。純なる愚直さを与えてください。また近く行われる衆議院議員選挙の上にみ心を行ってください。この祈りを主イエスのみ名を通してみ前にお献げします。
アーメン!!
ラベル:イザヤ 説教
posted by seibou at 00:00| 藤崎信師 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする