【序】
わたしは今年も8月15日「平和行進」に参加しました。日立の人びとは、「先生の顔が大写しでNHKのニュースに出ました」と言いましたが、わたしは見ておりません。今回で43回になります。新聞によると、参加者は300人と言うことであります。
【1】
ポツダム宣言と言うものがあります。聨合国が日本に無条件降伏を求めたものであります。通告を受けたが、天皇制の護持は必要であると、もたもたしているうちに原爆の投下になり、これを受諾することになり、8月15日の降伏の日を迎えます。ポツダム宣言に署名したのは9月2 日でありました。わたしは今も、この9月2日を覚えています。
ご存知のように、去る8月30日の総選挙により、自民党政府の敗北と、野党民主党の大勝利がもたらせられましたが、これは、歴史的な出来事であります。「こんなに大きくなるとは」との言葉もあります。しかし、一票の重みを、国民は感じております。わたしは、神の働きを強く感じます。9月1日から、わたしは新しい歩みをしたいと言う思いをもたらせています。「歴史を変える戦い」そういうものを感じます。
民主党がこれからどういう政治を行うか、国民は期待し、世界の人々も、かたずを呑んで注目しています。しかし、人気ほど不安定なものはありません。初めての政権であります。失敗はあるでしょう。わたしたちは「四年間で一歩前進」すれば、と言う気持ちでこの選んだ政党を支え、育てて行きたいと思います。根気が必要でしょう。
【2】
今日は、皆さんとイザヤ書36章をご一緒にお読みしました。1章からここまで読み続けてきました。神の守り、支えとを感謝いたします。感謝とは、神をほめたたえる表現方法の一つであります。礼拝を超えて、全生活を上げて、感謝し、神を賛美する。こういう生活を、この9月からさせてもらいたいと、願っています。
今日、ご一緒にお読みしたイザヤ書36章は37章へと続いております。ここは、イザヤ物語、あるいはヒゼキヤ物語というべき所であります。今日、ご一緒に読んだ箇所は、表題に掲げさせていただきましたように、ラブ・シャケの降服要求という内容であります。彼はアッシリヤ王セナケリブの代理者であります。
彼は、あつかましく、しかも堂々と降服を迫ります。アッシリヤの記録によると、その時既にイスラエルの46の町々は、アッシリヤ軍によって占領されております。そういう背景がありますから、彼の豪語には実体が伴っております。それを聞く者はアラム語(国際語)で話してほしい、と願ったのであります。
【3】
ユダの言葉では、「話さないでください」(11)。城を守る者が意気消沈するからであります。彼は先ずヒゼキヤの子である宮廷長エルヤキムと他の二人の者に向かって、「エジプトに頼るな」(5)。「折れかけた葦」ではないか。また、ヒゼキヤは「高台を取り除いて」(7)、宗教改革をして、「主により頼む」と言っています。
それから、「今わが主君アッシリヤ王と賭けをせよ」(8)。とても、とても勝つはずはない。「主がわたしに、『この地に向かって攻め上がり、これを滅ぼせ』とお命じになったのだ」(10)。主が命じたのだ。こんな言葉を城壁を守るものに聞かせられない。そこで、「アラム語でお話しください」(11)と、なるのであります。
そこで、ラブ・シャケは、「わたしと和を結び、降伏せよ」(16)、そうすれば、「自分の井戸を飲むことができる」。再度、「主は救い出せない」(26)と言いますが、「答えてはならないと王に戒められているので」(21)、沈黙を守ります。
【4】
そうして、三人の者は、「衣を裂いて」(悲しみに鞭打たれて)、「ヒゼキヤのもとに来て、ラブ・シャケの言葉を伝えた」(22)と、言う言葉で36章は終わっています。次の37章で予言者イザヤが登場してきます。ポツダム宣言と時代も人物も異なりますが、無条件降伏という内容は、何か似ているように思います。
今朝は、また詩篇71編を交読しました。これは、「老いたる者の賛美の歌」と言われる詩篇であります。「主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼んで」(5)きました。ですから、「老いの日にも見放さず、わたしに力が尽きても捨て去らないでください」(9)と、このように願い祈っております。
老いるということは、若いとき、或は壮年期にくらべると無条件的にすべてが弱くなります。これは外敵と言う外からのものではありませんが、内なる敵というものであります。「敵がわたしのことを話し合い、わたしの命をうかがうものが共に諮りあっています。「神が彼を捨て去ったら、追い詰めて捕らえる。彼を助ける者はもういない」と(詩71:11)。
【5】
これを別な言葉で言いますと、「神がおまえを支えない、もう捨てたのだ」と、言うことであります。聖書を読んで知ることは、今まで知らなかった暗さを知り味あうと、言うことであります。老いの弱さの中で、「もうお前は神に捨てられたのだ」と言う、このような内なる敵に遭遇することであります。
M・ルターは、「信仰の消息を知りたいと思わば、詩篇を読みなさい」と、言いました。老いの問題の中で、助けでなく、「神はあなたを支えない」と声を聞かされ、全面降伏せよとの内なる声に脅かされます。信仰すればすべてがよくなると言うのでなく、最も助けが必要なとき、敵に降服せよと、迫ります。
聖書を読んでいて、それまで知らなかった深い闇と共に、真実の光を見るような思いがします。71篇の詩人は、そのような暗闇の中から、「わたしは常に待ち望み、繰り返し、あなたを賛美します。」と歌っております。賛美とは、神様から受けた感謝の表れとしての表現行為であり、礼拝を超えて、生活全部、生き方全部が神様への感謝や賛美であります。
【6】
「わたしの口は恵みのみ業を、御救いを絶えることなく語り、なお、決して語り尽くすことはできません」(詩71:15)。詩人は救いを、癒しを体験した者であります。しかし、ただ彼は過去のことを回顧しているのではありません。これがこの詩篇の特徴であります。明日を見ているのであります。その彼の願い、希望、目標はいったい何でしょうか。
それはまさにこの18節にあります。「わたしが老いて白髪になっても、神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を、来るべき世代に語り伝えさせてください」(18)。残りの生涯において、若い世代に向かって、あなたの力(福音)を述べ伝えるまでわたしを見捨てないでくださいと、祈っています。
旧約聖書は、「力は若者の栄光。白髪は老人の尊厳」(箴言20:29)とそれぞれの世代の生き方を認めています。わたしは、オールドジェネレーションの頼もしいことを、それを助ける仕事の一端を、この9月1日から担わせていただきたいと、思っております。老いの日も、主を仰いで生活させてくださいと祈るものであります。
【7】
イザヤ書36章も、詩篇71篇も、時代が違い、書かれている個所も違います。しかし、同じものは、「信仰に生きる」と言うことであります。ヨセフ物語、ダビデ物語、ダニエル物語に共通することは、「ヒゼキヤに聞くな」と言うことでありましょう。
よい決心が与えられても、「藤崎信に聞くな」と言う声が、澎湃として起こってくると思います。人の言葉でなく、内なる声として、「神はお前を支えない、見捨てた」と言う強敵に遭遇することと思います。歴史を変える戦いとは、自己を変える戦いであります。オールドジェネレーションが円熟期であるならば、単純な福音に帰らなければなりません。
「あなたは持っているものをすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」(ルカ18:22)。分け与えるとは、単なる同情ではありません。神のわたしたちに対する態度であります。神に信頼を捧げ、主イエスにお従いいたしましょう。
【結】
「ナッハ、ホールゲ」(主に従う)。「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい」(ダニエル書12:12)。終わりまで、主に従う。しかも、それが「お前の道」と分かるまで、神を誠実に信じ、主に従う者でありたいと、思っております。神に祈祷を献げます。祈ります。
【祈り】
主イエス・キリストの父なる神、み名を賛美します。さわやかな9月を迎えました。日本の政治を守られるように、わたしたちの教会生活をお守りください。救いの日を感謝させてください。それは回顧ではなく、明日を見ることであります。イエスにある甦り、永遠の命の希望が与えられています。老いていくことに深い意味があります。それは、決して悲惨でもなく、無意味でもありません。むしろ、栄光への脱出であります。輝く日を仰がせてください。この祈りを主のみ名によって祈ります。
アーメン!!