2008年05月12日

5月11日週報から

◎今日はペンテコステ。教会の誕生日です!◎  
  五旬節あるいは聖霊降臨日ともいわれます。ペンテコステとはギリシア語で「第50」という意味で、元来は、イスラエルの3大祭(過越の祭、七週の祭=ペンテコステ、仮庵の祭)の一つで、小麦の収穫感謝祭でした。しかし、のちのユダヤ教では、この日をシナイ山でモーセを通して「十戒」が与えられた日として再解釈し、「律法を感謝する日」となりました。また、キリスト教会では、主イエスの復活から50日目に“聖霊が降った日”として、これを記念するようになりました(使徒の働き2章)。さらに言えば、この時から性別・年齢・国籍を問わずに、誰でもキリストを信ずる者すべてに聖霊が注がれるようになりました。

◎先週の礼拝◎
  礼拝出席者43名(うち子供7名)。昼食後には5月誕生者が祝福を受けた。また5月の昇天者の名が呼び上げられ、暫し故人を偲んだ。当日の藤崎信牧師の宣教要旨は、以下の通り。

◎足から履物を脱いで歩け(イザヤ書20章1〜6節)◎
  アッシリヤの属邦の一つであるペリシテの町(都市国家)アシュドデは、ユダその他近隣諸国と結び、またエジプトやエチオピアの援助を頼んでアッシリヤに対する反乱を起こした。しかし、アッシリヤの王サルゴンは将軍タルタンを派遣してアシュドデを攻め、これを陥落させた(BC711年)。
  その陥落に至る前3年間(BC713〜711年)、預言者イザヤは、神の命によって自ら捕虜の服装をしてエルサレムの町を裸、裸足で歩き、エジプトなどに頼る政策の無益なことを、身をもって示した。つまり“神のしもべ”イザヤは、言葉でよりもむしろ、日常の生活行動で神の御旨を預言したのである。

◎来週の礼拝宣教は福沢満雄牧師◎
  今年2月24日(日)に続いてのご用です。使徒の働き2章1〜21節より「聖霊の力の恵み」と題して。
posted by remi at 00:14| 週報より

2008年05月10日

5/4週報から

*先週の礼拝*
  4月7日(月)から18日(金)まで12日間、34名を連れての初添乗を終えた竹下力兄弟が、撮ってきた写真によって聖地旅行を実感させてくれた。特に、荒野の写真に迫力があった。静姉妹が「あがめます全能の主」(LP182を英語の歌詞で)と「いま歩き出そう」の2曲を特別賛美してくれた。また、前日訪ねてこられた増田ご夫妻が初めて礼拝に参加され、よき交わりを持つことが出来た。礼拝45名(うち子供8名)。

*「荒野で恵みを得る」(エレミヤ書31章1〜6節)*
  聖地旅行の恵みは、旅をした者だけの恵みではなく、人に伝えていくのも恵みではないかと思う。イスラエルという国は、面積でいうと日本の四国ほどだが、その中に北部の緑豊かな地域と、南部の乾ききった砂漠・荒野の地域の両面を併せ持つ不思議な国である。私は特に、荒野に心ひかれる。そこでは、現代人が必要と思っている一切のものが不要で、身分も過去の実績も、お金のあるなしも関係ない。
  一見、死に面した世界だが、そこに本当の“いのち”を感ずる。水が只の水ではなく、そこでは正真正銘“いのちの水”になっていく。イスラエルの民もエレミヤも、またイエスご自身や私たちも、荒野の経験を通して恵みを得た。十字架の後に“復活”があるように、荒野の後に“しあわせ”があるのだ。

*4月の〈市川家庭集会〉報告*
  4月4日(金)夜、宮村武夫先生の弟で、週3回の腎透析を受けている宮村三郎牧師(「足立キリスト教会」)が、マタイ5:4より「慰める神」と題し慰められる者の喜びを語った。出席31名。

*来週はペンテコステ(聖霊降臨日)そして「婦人の日」*
  宣教はウォーレン志保子姉妹。お昼は日頃の感謝を込めてお母様方やお母様的存在の方に男性陣が料理を作ります。
posted by seibou at 18:40| 週報より

2008年04月29日

4/27週報から「主イエスの復活のゆえに、この祈りの恵み」ローマ1章1〜4節、8章14〜27節

◎先週の礼拝
1月20日(日)以来の宮村武夫牧師が、午前の礼拝と午後の「聖書の学び」のご用をされた。前日、沖縄から到着した先生とほぼ時を同じくして、羽田から韓国のプ・ソンスク姉妹が突然に訪ねてきて、共に良き交わりを持つことが出来た。
 午前の礼拝宣教は以下の通りだが、午後はUコリント9章6〜16節より「福音の種蒔く喜びをともに」と題し、使徒の教会として誕生したこの群れが“福音の種蒔きをする志”を持つ者の群れであることを確認し合った。礼拝41名(子供7名)。
◎「主イエスの復活のゆえに、この祈りの恵み」(ローマ1章1〜4節、8章14〜27節)
  主の復活を喜ぶのは、何もイースターの時に限るのではない。パウロにとって、イエスの復活は主日で終わることだけではなかった。パウロは、復活のイエスを瞬間だが見た。このことがパウロの生涯を変えたのである。復活がなかったなら、その後のパウロの生涯はなかったと言ってよい。それでルカも、パウロの「ダマスコ途上の出来事」を3回も記した。
  パウロはエペソの人たちに「どんな時にも御霊によって祈りなさい」と命じたが、ここでは「御霊の助け」と「(御霊ご自身の)執り成し」を約束している。私たちは御霊によって『アバ、父よ』と呼べる、この恵みを無駄にすることがないように。

◎「市川家庭集会・満27周年コンサート」へどうぞ!◎
  5月2日(金)夜7〜8時半。常田美香(ボーカル)・高奈秀●(ピアノ)・石塚健(ギター)による賛美トリオ“Wings”が素敵な音楽をあなたに。どなたでも友人・知人をお誘いください。5月から28年目に入る集会が益々用いられるようお祈りを!

◎来月4回の主日礼拝の上にお祈りを!◎
●5月4日=藤崎信師●5月11日(聖霊降臨・母の日)=ウォーレン志保子姉●5月18日=福沢満雄師●5月25日=小林武夫兄。

◎来週 5/4 の礼拝宣教は藤崎信牧師◎
  イザヤ書20章1〜6節より「足から履物を脱いで歩け」。聖餐式、また昼食後に「5月誕生者のお祝い」もあります。
posted by seibou at 14:35| 週報より

4/20週報より「約束の地カナンへ」創世記12章8節〜13章18節

4/13の大竹堅固兄弟の宣教メッセージは以下のとおり

★「約束の地カナンへ」(創世記12章8節〜13章18節)
 「アブラハムの生涯」の2回目。父テラに従って、古代メソポタミヤ文明の最も栄えた都市で“月神崇拝”の中心地だったカルデヤのウルを出たのが第一の出発。彼らはユーフラテス川に沿ってハラン(ギリシャ語読みはカラン)に辿り着く。多分、そこに数十年はいたようで、その間に、父テラは亡くなった。
  アブラムがそこでさらに神の声を聞いて、ハランから南西の方カナンに向かうのが、本当の「第二の出発」である。
  今度は、アブラムは甥のロトと多くの家畜・奴隷を引き連れて、いよいよ約束の地カナンに入る。しかし、五百年後のモーセとヨシュアの時と状況は同じで、その地にはすでにカナン人がいた。こうして、アブラムはまたもや偶像崇拝と敵対民族のど真中に流浪の一族として流れ込んだのである。
  彼の淋しい心を支えたのは、ただ信仰のみであったと思われる。そして、主も常に彼に現われて、彼の心を慰め、励ましている。この時の主の約束は、このあとも、13:15・17、15:18、17:8、26:3、28:13、35:12に繰り返される。アブラムは、心より感謝して、まず「主のために祭壇を築いた」のである。
  アブラムは、いかなる場所においても、神を礼拝することを忘れなかった。これこそが彼の信仰の大きな特徴であり、神はこの信仰によって、アブラムを「義」とされたのである。
posted by seibou at 14:22| 週報より

2008年04月19日

08/3/2藤崎信師「背高く、肌の滑らかな民」イザヤ書18章1節〜7節

【序】
  三月になり、春を迎えました。ブラウニングの詩が思い出されます。「時は春、日は朝、朝は七時、片岡の露満ちて、揚げ雲雀なのりいで、蝸牛枝に這い、神空に知ろしめし、すべて世は事もなし」(上田敏訳)。非常に伸びやかな楽天的な詩であります。
【1】
  わたしたち兄弟姉妹で若い時よく口ずさんだ詩であります。皆さんも同じと思います。これは、「ピッパはとおる」と言う劇の中の一節であります。この少女ピッパは絹織物工場で日夜働き、一年にたった一度だけ与えられた休日の朝、丘を登り、陽光に包まれているうちに、ほめうたが口をついて出た、というものであります。
  朝露も雲雀も春にふさわしいイメージであります。のんびりとした情景を想像しますが、「蝸牛枝に這い」の蝸牛は、実はピッパであり、その「枝」は棘のある枝で、苦労に満ちた人生を思わせます。この解説(小塩トシ子)に、目を開かれるのであります。ピッパ自身が小さな蝸牛で、茨の人生を無心に歩んでいます。
  その姿を神はみそなわして、すべてにまさる平安を与えられる、というのであります。「神空にしろ示し、すべて世は事もなし」。そこに、この詩のただ楽天主義でない、大きな世界がある、と思わしめられます。わたしは聖書を通して、「神は大きい方である」と言うことを痛切に知らされていくのであります。
【2】
  今回は前回に続きまして、イザヤ書18節を輪読させていただきました。ここはクシュ、つまりエチオピアからの使節が送られてきます。紀元前716年エチオピア出身のシャバカが全エジプトを統一したという背景があります。その使節が、他の群小諸国に勧めて、アッシリヤに反抗させようとします。その使節がエルサレムに来るのであります。
  イザヤは、アハズ王のときもそうであったように、今やどんな種類の反抗同盟にも極めて強く反対します。それで、反抗同盟がうまくいかない、失敗するのみか、やがてアッシリヤの転覆が起こり、その哀歌を「使節よ、早く帰って知らせなさい」と言う内容であります。1,2節はクシュ(エチオピア)描写であります。
  今申しましたように、エチオピア出身のシャバカが全エジプトを統一したので、「災いだ、遠くクシュの川のかなたで」と呼んでいます。今日のスーダンのヌビア人も驚くほど丈高く美しい人種と呼ばれています。
【3】
  4節は、秘密裏に進められている反アッシリヤ計画を、神は世界に告げるという皮肉であります。「山に合図の旗が」とか、「角笛が吹きならされた」とかは、戦争が起こる、ということでしょう。しかし、神のときを待たねばならないのであります。「わたしは黙して(静まって)わたしの住む所(天から)目を注ごう」(4)。そして、熟するのを待って失敗させるというのであります。
  5,6節はアッシリヤについてであります。イザヤは使節を通して、反アッシリヤはおろか、それを超えて、当のアッシリヤの滅亡を告げるのであります。アッシリヤが今、西方アジアを支配するのは、まさしく神の決定であります。また、彼の支配がいつ終わるかも定められています(7)。
  そういうことが、熟し始めると、「主は枝を刃物で切り落とす」(5)と、表現されています。「それはすべて山の猛禽に与えられる」(6)。これはアッシリヤの兵士の死体が放棄されて、猛禽や野獣の餌食となることであります。そして、アッシリヤ軍の滅亡によって、主の力が示されるとき、「背高き民」から貢ぎ物がもたらされる、と言うことで終わっています。
【4】
  「シオンの山へもたらされる」(7)と最後にあります。シオン(エルサレム)の基を定めたのは、ほかならぬ主であり、彼はその民の主であり、従って他の列強との同盟は不必要であります。このイザヤ書18章の記事は、ヒゼキヤがBC715〜687新王として即位した頃、クシュからの使節を受けたものと言われております。
  18章を通して、わたしたちは預言者イザヤの視界の広さに目をみはらされます。ここではクシュ(エチオピア)をめぐる出来事が、世界の主なるヤーベのみ業として証言されています。歴史を支配し、また、歴史を超えて支配される「神(ヤーベ)の大きさ」を、わたしたちは現実的に知らされるのであります。
  クリスマスの子どもの集会に大勢の児童が参加します。うれしい悲鳴をわたしたちは上げるのであります。悪童で人を困らせているものが意外に大勢の友達を連れてくるのであります。その時わたしたちは、「神は大きい方」であると、実感するのであります。そのように広く深く人生を、また歴史を見ることが大切である、と思います。
【5】
  新約聖書を見てみますと、フィリポ(ピリポ)が『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け』との天使の声を聞きます。「そこは寂しい道である」(使徒言行録8:26)。ところが寂しいところから意外な展開が惹き起こされます。
  「エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていた」エチオピアのかん官がエルサレムに礼拝に来て帰る途中であったのです。その高官が、イザヤ書を朗読している。そこにフィリポが出会うのであります。
  イザヤの時代から、ずーと後に、エチオピア人がエルサレムに礼拝に来ているのであります。その陰にはイザヤを初めとする多くの預言者の働きがあったのであります。「落ち着いて静かにしていなさい。恐れることはない」(イザヤ書7:4)。また30年後も、「安らかに信頼することこそ力がある」(イザヤ書30:15)。このように、ひたすら神を信頼するイザヤの信仰が時を経、エチオピア人の心を捉え、礼拝へと導き、また時を経て、わたしたちもイザヤ書を読み、礼拝を献げるように導かれております。イザヤ書が国境を超えて、こうして神のみ業が歴史を超えて、証されているのであります。
【6】
  今日はクシュの人々を、「背高く、肌の滑らかな民」と表現されているところを読みました。わたしは、日本人はどういわれているであろうかと想像して、それを表題にさせていただきました。遠藤周作と言う作家は終始、「日本の神不在」を語っていた、というのであります。『白い人』は、神を持つ国民、『黄色い人』は神のない民であります。この民は平気で人体実験を行います。『海と毒薬』の中で、そのことが述べられます。『沈黙』では、すべてを腐らせるという日本の土壌が語られています。
  従って、キリスト教が育ちにくい、ということがよくわかります。しかし、けれどそれは人間の見方であって、神のみ心は別にあるのではないでしょうか。アッシリヤとエジプトという超大国の真ん中にあって、イザヤは広い視野をもって歴史に働く神のみ心を証し、したのであります。わたしはイザヤ書18章を読み、小さくて黄色くてもよい、と言う福音をいただいたような気がしました。
【7】
  最後にわたしは、「単純が力である」と言うことを申し上げて、説教の結びとしたいと思います。「自己実現」ということが、カウンセリングで強く主張されました。聞くべきところは多くあります。しかし、聖書は「神実現」であります。人生の目標は、「神を知り、神の栄光を現わすこと」であります。これは偉大な単純であります。わたしたちは自分の道を歩んでいるが、それと共に神の道を歩んでいるという、確信と安らかさを与えられています。
  また、マザーテレサが、科学者ジャック・モノーとの座談会に出席しており、最後に司会者から意見を求められて、たった一言、このように言ったそうです。「わたしは神の愛を信じています」。人間の可能性から見て、人類の未来がどんなに決定付けられていようと、また歴史がどんなに混乱しようと、すべてを支配している神が愛であるならば、究極的には、何事も失望しないのだと言う信仰による希望を語られたのであります。
  今日、お話した箇所に「わたしは黙して、わたしの住むところから目を注ごう」に、心ひかれます。
【結】
  わたしはこの一週間、多忙で心乱れたのであります。福島と佐賀から信仰の友を迎え、また加須読書会で小池万里子著『虹の彼方』の読書発表をし、余計なことに力を使い果たし、昨日は久美愛学園の評議員会に出て、珍しく声を荒げました。その時、「わたしは、目を注ごう」のみ言葉にふれ、癒しと平安が与えられました。神に祈祷を献げます。祈ります。
【祈り】
  主イエス・キリストの父なる神、み名をさんびします。あなたは、あるときは、緊張して自滅しないように、あるときは重圧にもクールに対処できるように力をお与えくださいます。感謝であります。「神にお任せする生活は、なんと幸いなことでありましょうか。」受験にある、また就職にある若い人々に平安をお与えください。そして、あなたの目の注ぎを仰がせてください。そして、わたしたちも「毎日が宝の山」であるという恵みの世界を拝させてください。また、新しく教会員になられた兄弟に、甦りの力を賜りますように、切に祈ります。これらの祈りを主イエス・キリストのみ名を通してみ前にお献げします。
アーメン!!
posted by seibou at 14:56| 説教

08/2/3藤崎信師「見よ、ダマスコは都の面影を失う」イザヤ書17章1節〜14節

『見よ、ダマスコは都の面影を失う』イザヤ書17章1節〜14節
【序】
 「星は招く」。真冬の空を仰いで、永遠を思う。神に祈り、部屋に入りペンを握る。「はや二月」となる。皆さんいかがお暮らしですか。お伺い申し上げます。「勇気こそ地の塩なれや梅真白」(中村草田男)。
【1】
 教会は、「灰の水曜日」(四旬節)を迎えようとしています。政界は、「つなぎ国会」で、自民と民主が離れようとしています。食糧界は中国の「毒入り餃子」で大変であります。わが家では、「眠られぬ夜」を熱を入れて語り合う。俊さん(孫)は、突然「僕にもある。試合に出る前の晩は嬉しくて眠られない」と、言います。へんてこな家庭であります。
  一月の締めくくりが出来なくて、「それでいいのか」という思いが、わたしにはあります。しかし、「神は招く、愛は結ぶ」であります。キリストが用意してくださる礼拝で皆さんの笑顔に接することが慰めであります。「神に栄光、すべては勝利、アーメン」(升富安左衛門)と、和したいと願います。
  今朝は、前回に続きまして、皆さんと共にイザヤ書17章を読ませていただきました。「前回に続く」と言うことは、どんなに途切れても、「神の言葉は続く」(マタイ24:35)と言うことであります。今朝は趣旨を変えて柔軟に、「トランク」をテーマに話したいと考えております。よろしくお願いします。
【2】
  初めに、「父のトランク」について言及します。子供のころ、上野の駅で父が大きな皮のトランクを持っているのを想い出しました。「力があるなあ」と言う感懐であります。次に、「イザヤ書のトランク」。そして、最後に「福音書のトランク」。このような順序で説教をさせていただきます。上手に聴いていただけるとありがたいと思います。
  「パンドラの箱」と言う神話があります。あけると不幸が飛び出すと言う話であります。トランクをあけると、「何が飛び出す」のでしょうか。「父のトランク」とは、2006年ノーベル文学賞を受けた、オルハン・パムクが受賞記念の折の講演会での題名であります。トルコ人として始めての受賞であります。
  「父のトランク」。何が入っているか。開けたら何が出てくるか、オルハン・パムクは「中途半端な作品やノートばかりである」と語るのであります。父を厳正に批判しながら、父がいかに、わたしを過度まで尊敬し、愛していたか、父がこの受賞式にいてくれたら、どんなによかったか、と言う内容であります。2002年に父は死亡しております。
【3】
  その講演の中で、「小説が最高の芸術」であると語っております。わたしが感じた一、二のことを述べると次のようになります。「作家とは誰でも知っているけれど、知っていることを知らないことのように語るものです」と、言っております。イスタンブールの通りや、橋や、人々、皆知っていることであります。それを空想した世界で語る、と言うことであります。

そうすると、「わたしの空想の中や、わたしの本の中でなく、勝手に生き始める」というのであります。「針で井戸を掘るように忍耐強く空想して、築いたこの世界は、わたしにその時、何よりも現実のように思います」。パムクは、トランクを開いて、「わたしの子どもの頃、青年期の初期の頃、父は幸せでないことがわかる」と言うのであります。
  このような、「屈辱、抑圧、怒りと言った暗い素材によって、わたしの小説は書かれるのです」。「小説と言う芸術は、必死に隠したいと思っていた自分の恥を他人と分かち合うことが、わたしたちを自由に解放することを、わたしに教えてくれた」と、語るのであります。この演説は父の失った面影を密かに、しかも豊かに語っております。
【4】
  次に、「イザヤのトランク」について語ります。特に17章のトランクであります。17章は「断片的予言」(ライト)と言われております。「開ける」と、「絶える」(3)「失う、ダマスコは、王国を失う」と、「廃虚となる」「荒れ果てた地となる」(9)、「破滅が襲う」(14)、「彼らはいなくなる」開けると、そのように、「破滅、破滅」がぞろぞろ出てまいります。
  1〜3節はダマスコについてであります。「見よ、ダマスコは、都の面影を失い、瓦礫の山となる」(1)。ダマスコは立派な美しい都だったのでしょう。その姿(面影)を失うことは、印象的な言葉であります。4節以下11節までは、エフライムのことであります。「その日」(4)とありますが、ダマスコの滅亡と同時に、「その日が来れば、ヤコブの力は弱まり、その肥えた肉はやせ衰える」(4)、肉体的比喩です。
  5節、6節は植物の比喩です。「残るものは少ない」と言います。ヤコブ(つまりエフライム)の滅亡であります。エフライムの滅びは、「岩に心を留めていない」(10)と言う偶像礼拝にあります。7節8節は研究者によると挿入句であると言われますが、「その日、その目をイスラエルの聖なる方に注ぐ」とあります。審判を経験したものは、戻ってくる、と言うことであります。万物の創造主は、聖なる方です。これがイザヤの特徴であります。
【5】
  12節「災いだ、多くの民がどよめく、どよめく海のように」とあります。多くの民も、国々も、主にとって全く無力な存在であることを創造神話的イメージをもって表現しています。例えば詩篇104編に、「雲を御自分のための車とし、風の翼に乗って行き巡り」(5)とあります。
  そして、「あなたが叱咤すると散って行き」(7)とあります。このような創造神話的イメージを用います。そして「夕べには、見よ、破滅が襲い、夜の明ける前に消えうせる。これがわれわれを強奪するものの運命だ」(14)、で結ばれています。イザヤ書37章の36節に、次のような記録があります。
  「主のみ使いが現れ、アッシリヤの陣営で18万5千を撃った。朝早く起きてみると、彼らはみな死体となっていた」。このことを連想しますと、この場合「略奪する者」、「強奪する者」はアッシリヤとなります。また12節の「多くの民」「国々」もアッシリヤの多国籍軍と理解できます。従って12節から14節は、アッシリヤの破滅となります。
【6】
  イザヤ書(特に17章)のトランクを開けてみたら、「破滅、破滅」が出てきますが、その中で、「聖なる方に目を注ぐ」とあります。預言者は何よりも時代に対して語るものであります。シリヤ・エフライム戦争についてイザヤは言及します。また隣国(シリヤその首都ダマスコ)と大国(アッシリヤ)の運命について述べています。
  預言者は、しばしば審判を語ります。しかし、イザヤ書にはメシヤ予言が数回述べられています。審判は多く語られますが、よく読むと、預言者は、審判の前に救済を語ると言うのが、真の預言者であります。万物の創造者、イスラエルの聖なる方は、国を祝福し、救うお方であります。
  「その日には、イスラエルは、エジプトとアッシリヤと共に、世界を祝福する第三のものとなるであろう」(イザヤ書19:24)とあります。そして、「祝福されよ、わが手の業なるアッシリヤ」(25)とあります。わたしたちも審判の前に救済を語るものでありたいと、願います。「先行する恵み」を思い感謝しましょう。
【7】
  最後の「福音書のトランク」について、語る時間がなくなりました。福音書のトランクを開けると、いろいろな物が出てきます。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネであります。出てくるものを一語で、要約すると「見よ、この人なり」(ヨハネ19:5)であります。由木康先生の言葉で申し上げると、次のようになります。「まぶねの中にうぶごえ上げ」(賛美歌121番)とは、ルカの福音書です。
  「食する暇も打ち忘れ、友なき人の友となりて」この人を見よ、エッケ・ホモ!!「すべてのものを与えし末、死のほか何も報いられず、十字架の上に上げられつつ敵を許ししこの人を見よ」エッケ・ホモ!!であります。9・11貿易センタービルが破壊され、ニューヨークも都の面影を失ったのであります。テロを打てと皆が一致しました。
  イザヤは神殿でわたしは神を見た、滅びると叫びました。その時天使が、「火鉢で取った炭火」(6:6)で唇に触れ「咎が取り去られ罪は赦されます」と、贖罪を経験します。この火鉢の炭火こそ、「敵を愛せよ」との主のおことばであります。敵との共存、審判の前に救済を告げる寛容さが、この時代には求められていると思います。最初に声かける方は神であります。各国が、神の声を聞きますように。
【結】
  「神のトランク」。開ければ、「信仰・希望・愛」が詰まっているのが一目瞭然であります。その中には面影を失ったわたしの名があるのであります。わたしたちの家庭は模範的な家庭ではありません。「救われた者の家庭」であります。救いたもう恵みの神を、心を高く挙げて賛美しましょう。神に祈祷を献げます。
【祈り】
  主イエス・キリストの父なる神、み名をさんびします。個人個人のトランクを開けねばなりません。自分の大切にしているものが、浦島太郎の煙りとなって消え失せます。しかし、主がお与えになった「救いの面影」は消え失せることはありません。あなたは「倒れようとする人を、一人びとりを支え、うずくまっている人を起こしてくださいます」(詩篇145:14)。困難の中にいる人を、その只中で支え、お救いください。み名によって祈ります。アーメン!!
posted by seibou at 13:14| 説教

2008年04月16日

4月13日週報

◎先週の礼拝◎
  復活後第二主日。季節も“春爛漫の季節を迎えた。”前日に来られた藤崎信先生は、朝の散歩で里見公園の満開の桜にご満悦だった。礼拝の中でCSの進級式があり、一人一人が元気よく挨拶し藤崎先生が祝福の祈りをされた。
 当日の藤崎信牧師の宣教要旨は、以下の通り。

◎主は撃たれるがまた癒される(イザヤ書19章)◎
 この章は、内容から大きく二つに分けられる。第一は1節から15節で「エジプトの裁判」である。会はエジプトに内乱を起こし、エジプトを過酷な支配者に渡される。つまり、エジプトの災いのすべても主の御手の中にあるわけである。
 第二の区分は16節〜25節で、「終わりの日の和解」ともいうべき内容である。ここでは前半とは一転して、エジプトが刑罰の対象から祝福の対象へと変わっていく。つまり、審判の対象だったエジプトが、今度は救いの対象になり、エジプトが神の審判を通して主を知り、主の信仰に入っていく。しかも、それはエジプトだけに留まらずにアッシリヤに及び、共に礼拝を捧げるという、イザヤの驚くべき預言である。主がエジプトを撃ったのは、まさに癒しと改心のためだった。

◎来週の礼拝宣教(午後の学びも)は宮村武夫牧師◎
 1月20日に続いて今年2回目のご用。午前の礼拝は、ローマ1:1〜4と8:14〜27より「主イエスの復活のゆえに、この祈りの恵み」と題して。また、午後の学びは、Uコリント9:6〜15より「福音の種をまく喜びを共に」と題して。
posted by remi at 00:22| 週報より

2008年04月09日

4月6日週報

◎先週の礼拝◎
  ウォーレン・ランディ一家はイースター礼拝に参加してから一週間、房総の海山、東京見物を楽しんだ。3人の子供たちも「こんな楽しい旅はなかった」そうです。
 当日のランディーウォーレン兄弟の宣教要旨は、以下の通り。

◎アフリカの宣教活動に導かれるまで◎
  今日、神様が私の人生に何をしてくれたかを話したい。私は若い頃、荒れ果てた生活をしていた。悪い友達と勝手気ままに暮らしていたが、いつも心に空しさ、空虚さがあった。
 それが妻となるキャロルと出会い、また熱心なクリスチャンであった彼女の母に接して私は次第に変えられ、27歳の時に、イエス様の十字架が自分のためと分かり洗礼を受けた。
 その後、MAFというパイロットたちの宣教団体に導かれ7年間働いた。特にそのうち5年間、神はアンゴラに私たちを導いた。当時、アンゴラは国連が“世界中で最も危険な国”と宣言した国であった。神は私に詩篇91篇を示してくれた。
 そこにあるように、家族全員が何度もマラリアを患った。長男は5回もかかり、キャロルはチフスにもかかり危なかった。
 しかし、その都度、神様は私たちを救い出してくれた。髪に合っては「最悪に思えるときこそ、最高の生活であった」のだ。

◎3月の<市川家庭集会>報告◎
  3月7日(金)夜。牧野直之先生(ぶどうの樹キリスト教会)が、ヨハネの黙示録1・5章より「封印を解くのにふさわしい方」と題して、私たちにも及ぶ祝福の約束を説き明かされた。

◎来週の礼拝宣教は大竹堅固兄弟◎
  「アブラハムの生涯」の2回目。創世記12章8節〜13節より「約束の地カナンへ」。
posted by remi at 23:00| 週報より

2008年03月30日

3月30日週報

◎先週の礼拝◎
  2月6日の「灰の水曜日」からレント(四旬節=受難節)を経て、47日目の先週、「復活の朝」を迎えました。桜の開花宣言と時を同じくする“春の訪れ”です。前夜来日した、ウォーレン・ランディ一家も、元気にイースター礼拝に参加。礼拝後の愛餐会で、ランディ兄弟は「この教会のこと、そして皆さんとの交わりを父からよく聞いていたので来るのが楽しみだった」と挨拶された。当日の大竹堅固兄弟の宣教要旨は、以下の通り。

◎だれを捜しているのですか(ヨハネ20章1〜18節)◎
  今朝、イースターを祝う日の朝、主イエスの「復活の朝」を記す使途ヨハネの記述の中で、復活のイエスがマグダラのマリヤに言われた表題の一句に注目したい。この問いは、今も私たちに、人類に発し続けられている問いではないか。
  まず、彼女がそうであったように、どうしても生きている方(主イエス)を死者の中に捜してしまう私たちの限界がある。聖書を読むと、使徒たちでさえ、そう簡単にイエスの復活を信じた訳ではない。しかし、イエスの十字架の時、イエスを捨てて逃げた意気地のない弟子たちが、一人を除いて10人までが、のちに殉教の死を遂げるまでに強くなったのはなぜか。
  その理由は、聖書にあるように、彼らが「復活のイエス」に出会ったこと以外にない。私たちも、十字架と並んで「復活のイエス」を信じ、いつもその主を求め続けていきたい。

◎今週4月4日の市川家庭集会をお忘れなく!◎
  宮村武夫先生の弟、三郎先生(足立キリスト教会)が、初めてのご用を。現在、腎透析中の先生の上にお祈りを。

◎来月4回の主日礼拝の上にお祈りを!◎
・4月6日:藤崎 信 牧師
・4月13日:大竹 堅固 兄弟
・4月20日:宮村 武夫 牧師(午後の学びもあります)
・4月27日:竹下 力 兄弟

◎来週の礼拝宣教は藤崎信牧師◎
  イザヤ書19章1〜25節より「主は撃たれるが、またいやされる」。聖餐式、昼食後4月誕生者のお祝いもあります。
posted by remi at 23:13| 週報より

3月23日週報

    Happy Easter 〜イースターおめでとう〜

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
                            (ヨハネの福音書11章25〜26節)

◎先週の礼拝◎
  受難週に入る「しゅろの主日」。吉枝隆邦先生が午前の礼拝と午後の礼拝(終末論について)を約半年ぶりに。当日の吉枝隆邦牧師の宣教要旨は、以下の通り。

◎ことばは人となって(ヨハネの福音書1:1、14節)◎
  言葉は大切で、特に複雑な事柄を伝えるためには言葉は不可欠です。まことの神様も、私たちに「まことのことば」を伝えるために、やはり「ことば」(ロゴス=主イエス)を用いた。@ことばは世界・宇宙の始まりの時にすでに存在していた。そしてAことばは神と共にいた。つまり、神が「物」ではなく「お方」であると同時に、ことばも「お方」である。Bことばは神そのものであった。すなわち、イエス様も神そのものであった。全人類の救い主になれるのは、神ご自身以外にない。そして、イエス・キリストは人間になられた神そのもののお方。私たちの罪を贖う“ただ一人の救い主”イエスに感謝しよう。
posted by remi at 22:57| 週報より