2009年02月22日

市川家庭集会のご案内09年2月〜5月

【市川家庭集会】 毎月第一金曜 夜7:00〜
 
 市川家庭集会は、家の教会「聖望キリスト教会」の先駆けとなった集会です。
 毎回、外部から諸先生や、活躍している信徒の方々をお招きしてお話や音楽などを楽しんでいます。他の教会の方や、キリスト教は初めてという方でも、お気軽にお越しください。
 集会は7:00からですが、毎回、手作りの夕食を用意してお待ちしておりますので、その前にどうぞ。

● 2月6日(金)夜7:00〜
牧野直之牧師(「ぶどうの樹キリスト教会」)
1942年東京生まれ。長年、OMF(国際福音宣教会)のタイ宣教師をはじめ東アジアの宣教活動に従事。豊かな国際感覚に“ジョーク(冗句?!精神”も横溢。

●3月6日(金)夜7:00〜
影山範文牧師(「愛のキリスト教会」)
オアシス福音センター代表。生後1年半で視力を失った盲目の伝道者。全盲の桂子夫人と二人の子供を育てる。そのメッセージは、明快で力強い。

●4月3日(金)夜7:00〜
森本春子牧師(「聖川・聖愛基督福音教会」)
1929年熊本生まれ。労務者の町・浅草山谷伝道に命を賭ける火の玉牧師。その情熱と伝道スピリットはどこから来るのか。“炎の語り”を一度聴け!

◎市川家庭集会・満28周年記念「ベドウ路得子 天からのこもれび」

●5月1日(金)4時〜5時半頃
ご主人のマーク宣教師と3人のお嬢さんたちと共に作ったニューアルバムを中心に。主への賛歌!
【市川家庭集会 (第1金曜 19:00〜)の最新記事】
posted by seibou at 21:37| 市川家庭集会 (第1金曜 19:00〜) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ぜひ、お子様を「教会学校CS」へ!

・まず、大人になっても恥ずかしくない礼儀とマナーを教えます。創造主なる神様を敬い、日々生かされていることに感謝し、人に対する優しさを育てます。
・四千年以上の歴史を持つ「聖書」の話を学び、その聖句を覚え、感謝をほめ称える歌(賛美)を歌います。
・一人一人が、神様に感謝と願いの「お祈り」をします。
・CSのスタッフにはカナダ人、中国人、ロシア人などもいるので、その国の言葉や歌や文化も学べます。
・またスタッフの中には「手話」の上手な人もいるので、簡単な手話を習い、手話をしながら歌うことも…。
・毎週のお小遣いの中から「献金」もします。その献金でアフリカの男の子1人をサポートしています。彼は学校に行けるようになりました。このことを通してお金の貴さを知ります。彼とは手紙の交換をしています。
・礼拝が終わったあとの「分級」では、さらに聖書のことを学んだり、工作をしたり、ゲームをしたり、お菓子作り、フラワー・アレンジメント、リース作りなど、いろいろなことを毎週して、みんな楽しんでいます。
・一年に何回かはハイキングやプラネタリウム見学などにも出かけます。また、近くの老人の施設をお訪ねし、歌を歌ったりしてお年寄りとも交流しています。

♪先週(2/15)の教会学校のようす♪

礼拝では、ウォーレンケンさんが、絵本を通して、イエス様が、天井から下りてきた病人を癒したお話しをしてくれました。4人の男の人がイエス様を信じて、病気で長い間動けない自分たちの友人を運んできました。人が溢れ家に入れないと、その男の人たちは家の屋根を壊してまでして、その友人をイエス様のところへと連れて行きました。イエス様は、4人の男の人たちの信仰をご覧になり、その病気を癒したことを教わりました。分級では、前日がバレンタインだったので、チョコレートフォンデューパーティーをしました。イチゴやパイナップル、マシュマロなどをフォンデューしてみんなで頂きました。
(子供11名、大人&スタッフ6名、計17名)
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09年2月22日聖望教会週報から

◎先週の礼拝◎
  15日(日)の礼拝と午後の学び(「聖書の統一性」について)共、吉枝隆邦牧師が元気に務められた。立山ファミリー(5人)が1月4日以来久しぶりに。出席者48名(うち子供12名)。

◎「驚きの日々の始まり」(ヨハネ4章1〜42節)◎
  有名な「イエスとサマリヤの女」の個所を、女の独白の形で見事に再現してくれた。「私の名前なんか、どうでもよいのよ。それより、驚きの連続だったあの日のことを聞いてよ」と女は、イエス(=メシヤ)に出会った驚きを人々に語った。イエスは、この村に2日間滞在し、多くの人が救い主を知った。しかし、それは女の驚きの生涯の始まりにすぎなかった。
  さて、私たちはどうでしょうか。驚くべきことが余りに少ない“無関心・無感動”の生活を送ってはいないだろうか。イエスのようズキズキと心を痛めるものがあるだろうか。
  信仰が何年経とうが、このサマリヤの女のように、新鮮な驚きの心を失いたくないものです。どうか、私たちにも感じる・感動する心を与えて下さい。その驚きが感謝となり行動となるように。私たちを日々の生活の中に派遣して下さい。

◎来月5回の主日礼拝の上にお祈りを!◎
  ●3月1日=藤崎信牧師●3月8日=竹下力兄弟●3月15日=小林武夫兄弟●3月22日=福沢満雄牧師●3月29日=証詞会(第38回)。久しぶりに「召天者記念礼拝」と致します。

◎来週の礼拝宣教は藤崎信牧師◎
  イザヤ書30章1〜33節より「静かにしているならば救われる」。礼拝の中で聖餐式、また昼食後に「3月誕生者のお祝い」があります。2時からは「ハレルヤ・コーラス」の練習も。
posted by seibou at 21:02| 週報より (日曜礼拝 10:30〜) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月15日

2/8 教会学校

礼拝では、野田さんが、紙芝居やパソコンをとおして、イエス様がペテロを弟子に招いたお話しをしてくれました。

一晩中働いても一匹も魚がとれなかったペテロに、イエスさまは「もっと深いところに船をこぎ出しなさい」と命じました。その通りにすると、網から溢れるほどの魚がつれました。イエスさまが「人間をとる漁師にしてあげよう」と言うと、ペテロは網を捨てて、すぐイエスさまについていったことを学びました。

分級では、2チームに分かれて、礼拝のメッセージに関する内容のゲーム対決をしました。イスラエルのことガリヤラ湖のことなど、楽しみながら知識を得ました。

(子供8名、大人&スタッフ4名、計12名)
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09年2月15日聖望教会週報から

◎先週の礼拝◎
  嬉しいことに、鹿児島から久しぶりに帰られた唐川姉が二人の子とお母さんと一緒に。出席41名(子供9名)。
  当日のウォーレン志保子姉妹の宣教要旨は、以下の通り。

◎「聖餐と聖徒の交わり」(使徒の働き2章42〜47節)◎
  使徒の働き2章42〜47節には、聖餐と信徒の交わりの関係が如実に描かれている。初代教会のクリスチャンたちは、まず礼拝のために集まり、そこで聖餐をしていた(42節)。彼らは、日々、自分の持っている物を共有し、貧しい人を助け、愛の業を行いながら暮らしていた(43〜47節)。ここで大切なのは、聖餐によって、信徒たちが一つにされていたということである。聖餐が、彼らを愛の業へと駆り立て、信徒同士の深い交わりへと導いていたことである。
  聖餐は、イエス・キリストの十字架と復活における救いが秘められた“食べる福音”である。これこそが、信仰の中心であり、礼拝の中心である。
  聖餐を通して、イエス様は私たち一人一人に「わたしの贖いのからだをとって食べなさい。わたしの尽きることのない愛といのちの血をとって飲みなさい」と語りかけ、私たちを救いへと招いて下さっているのだ(ヨハネ6:47〜58)。
  このイエス様の招きによって、私たちは、礼拝に集められているのである。
  初代教会のように、聖餐が、礼拝と信徒の交わりの中心に置かれるとき、教会は必ず一つになれる! そのことを常に覚える群れでありたい。

◎「房総聖会」(第29回)祝福のうちに!◎
  2月11日の午前・午後の二度の「聖会」で、講師の郷家一二三師(坂戸キリスト教会牧師)が「喜びあふれる聖化の恵み」と題し、力強く恵みの宣教をされた。当教会からも11名が参加した。

◎来週の礼拝宣教は大竹堅固兄弟◎
  テモテへの手紙第二 2章1〜13節より「主の恵みによって強くあれ!」。司会=久保田兄、受付=久恵姉、奏楽=静姉
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2009年02月01日

2/1 ♪先週の教会学校のようす♪

礼拝では、平田さんが、紙芝居を通して、イエスさまの最初の奇跡についてお話しをしてくれました。

ガリラヤのカナの町で、結婚式に招かれたイエスさまは、水をぶどう酒に変えるという最初の奇跡を行ったことを教わりました。

分級では、平田さんが、手話でひらがなを教えてくれました。あ行、か行、さ行まで、手話で覚えました。子供たちは、あっという間に覚えました。次回、た行から教わるのを、みんな楽しみにしています。

芹沢さんのお孫さん(年長)がCSに初参加してくれました。また1ヶ月ぶりに群馬から光くんと恵人くんが、元気な顔を見せてくれました。

(子供10名、大人&スタッフ8名、計18名)
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2009年01月04日

09年1月4日藤崎信師「われらの喜び」イザヤ書28章1節〜29節

【序】
  新年おめでとうございます。本年最初の主の日の礼拝を献げる喜びを、心から感謝するものであります。「ハレルヤ。天において主を賛美せよ。日よ月よ、輝く星よ主を賛美せよ。地において主を賛美せよ。若者よ、乙女よ、老人よ、幼子よ、主の御名を賛美せよ」。
【1】
  この詩篇148篇を歌って、新しい年を迎え、祝いあいたいと、思います。賛美は事を一変するのであります。心を高く上げて、ハレルヤと叫び、新年、新誕生、新日本を祝いたいと思います。ベツレヘムの馬小屋で幼子イエスを拝んで歓喜に満たされた三人の博士たちの事を、思い出します。
  彼らは、「別の道を通って自分たちの国へ帰っていった」(マタイ2:12)のであります。わが国も従来の道でなく、新しい道、新しい生活に進まねばなりません。新しい年を迎えて、わたしどもの行くべき新しい道は、主に仕え、主を賛美する道であります。その時、あふれる歓喜が待っています。
  先程、詩篇100篇を交読しました。「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ、喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。感謝の歌を歌って主の門に進み、賛美の歌を歌って主の庭に入れ、感謝をささげ、み名をたたえよ」。そのように、主の門に進み、主の庭に入って、み名をたたえましょう。「天よ、主を賛美せよ、地よ、主を賛美せよ」であります。
【2】
  今朝は前回に続きまして、イザヤ書28章を輪読させていただきました。イザヤ書の黙示録(24章から27章)が終わって、28章から31章は「アッシリヤのくびき」であります。これはイザヤの後期の予言であります。今日、お読みしました28章は「死と立てた契約」という処であります。これは、『寝床が短かすぎて」(20)、役に立たないと言うものであります。
  1〜13節は、「審判」です。14〜22節は、「シオンの隅の石」であり、終わりの23〜29節は、「農夫の知恵」ということであります。28章1節、「災いだ、エフライムの酔いどれの誇る冠は」。災いだ(ホーイ)という感嘆詞で、28の1、29の1、30の1、31の1、で始まり、編集者は、そのような意図でまとめております。
  28章1節〜6節、「サマリヤの陥落」で、「誇る冠は踏みにじられる」(3)。こういう表現は「ギリシャ的」ヘレニズムの影響を受けている(関根正雄)と言われます。サマリヤは滅ぼされるが、「残りの者」(5)は「輝く花輪」となり、神から勇気が与えられ、世界にもそれを及ぼす「力となられる」(6)と、あります。
【3】
  7〜13節は、北王国のサマリヤの酔いどれが滅ぼされたように、南王国のユダの「彼らもまた、濃い酒のゆえに迷う」(7)のであります。9節以下はその酔う者どもが、イザヤを嘲笑するのであります。イザヤは、「乳離れした子」(9)に話しかけるように、戒め「ツァゥ・ラ・ツァゥ」と言っている。まことにおかしなことだといっています。教師が生徒にいろいろ繰り返すように、母親が乳幼児に、バーバーと言うように、審きを告げるイザヤをつまらぬことを言うと揶揄するのであります。
  しかし、「主が彼らに言っておられたことは、『安息』である。しかし、彼らは聞こうとしなかった」(12)。「それ故、彼らが馬鹿にしていた言葉が、逆に彼らに臨んで、ツァゥ・ツァゥが実現して、罠にかかって、捕らえられる」(13)。1〜13節は、このようにして「審判」が述べられています。
  第2区分の14〜22節は、「シオンの隅の石」であります。エルサレムを治めるものは「我々は死と契約を結び」(15)。「洪水が来ても我々には及ばない。」と、こう言います。政治家たちの大言壮語に対する主の答え。それは全世界を治めたもう主に信頼する信仰であると言うことです。「わたしは一つの石をシオンに据える」(16)。
【4】
  この石は試みを経た石、尊い隅の石と言われているが、これは主に対する絶対不動の信仰を表徴したものであります。主に信頼する信仰は最大の力であります。この言葉は、新約聖書において、キリストに適用され、またキリストによって実現されたものと解されています(ロマ9:33、10:11、1ペテロ2:6〜8)。
  17節は、主の建てたもうすみかは信仰を基として、隅の石とするばかりでなく、公平と正義の基準に合格したものである、と言うことであります。そうでないものは空しく不完全で、神の審判に耐えないことを現します。18節は15節の政治家たちの大言壮語は、神の審判が臨むとき、全く虚偽であることが実証されると言うことであります。
  「死と結んだ契約」(18)を、エジプトとの協定とすると、エジプトは助けず、「洪水」と言うアッシリヤに「踏みにじられる」と言う風に解釈されます。そうなると「ただ恐怖でしかなく、寝床は短かくて役に立たない」(20)、安全と考えていたことが、実際に当たって何ら役に立たないことを、譬えで言い表しています。
【5】
  21節は、かつてヨシュアやダビデの時、主はイスラエルのために立たれたが、今度はユダの政治家や人民を罰するためにたてられるということであります。「今、嘲ることを止めなければ」(22)と言ってイザヤは、「定められた滅びについて聞いたこと」を率直に告げたのであります。
  第3区分の23〜29節は、「農夫の知恵」と言うことであります。これは、主がその民に対する意思をいかに行いたもうかを説明したものであります。「農耕」、「種まき」、「脱穀」を行うが、「砕きつくすことはない」(28)とあるように、刑罰はいつまでも続かないと言うことであります。
  農夫のたとえで、神の多様な行為を説明するのですが、神は一様に振舞われない。主は撃たれるがまた癒される。「主の計らいは驚くべきものである」(29)と言うのがその結論であります。イザヤ書28章は、一言で言えば「語れ!」といわれたことを語り、書き記したものであります。学ぶべきこと反省すべきことは、「語れ、と言うことに食欲も起こらない」と言うことではないでしょうか。
【6】
  イザヤは徹頭徹尾、信仰の預言者であります。その初期にあたり「落ち着いて静かにしていなさい。恐れることはない」(7:4)、30年が過ぎても同じであり、「静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(30:15)と、信仰に終始しております。
  イザヤの神は、「聖なる神」であります。すべてを超えた神であります。この聖なる神はセム族一般の信仰でありますが、預言者のそれは倫理に結びついております。今日学びましたように、「隅の石」は、「正義と公平」と合致したものでなければ空しくなります。この唯一の神は「ゆるやかと流れるシロアの水」であります。
  詩篇第1篇に、「流れのほとりに植えられた木は、時が巡りくれば実を結ぶ」(3)とあるように、神の臨在こそ、彼らの唯一の救いであります。その水を拒んだとき「大川の、つまりユーフラテスの水で溢れる」(8:5〜8)のであります。エジプトとの同盟は間違いであり、再び信仰に立った平和と信頼の政策を行え。ヤーベの臨在こそ、唯一の基盤であり、「信じる者は慌てることはない」(16)と、今日教えられました。
【7】
  終わりになって、わたくし事を述べますが、一枝さんは膵臓がんといわれますが、腎臓をよくすることがそれには大切であると、血液検査から彼女は学んでおります。また医学書を読んでおります。病むことも学びであります。わたしにも課題があります。鈴木俊郎先生の本を出す事、もう一つは書斎の整理であります。書斎の整理が先だと、一枝さんの学びから教えられています。
  そして、(1)、人に任せず、必ず「自分でまとめよ」。(2)、聴き上手、褒め上手になりなさい。(3)、自分の為に、金を使え。この自分のために金を使って、書斎の整理をし、鈴木先生の本を出したい、と思っています。しかし、鈴木先生は内村鑑三伝のあれほどのたくさんの資料を持っていながら、出さなかったのであります。
  その意味をよく考えて、被造物神化の峻厳な拒否を徹底していきたい、と思っています。偉大なる否定のないところに、偉大な肯定も生じません。イザヤは神の前に全く自己を投げ出し弱かったから、この世に強くあったのでないかと思います。キリスト教は、日本にあっては、全く新しい異質の救済を示すのですから、打って出るには勇気がいります。
【結】
  「勇気こそ地の塩なれや梅真白」(中村草田男)。イザヤは、人を信ぜず、ただ神を信じた、と思います。聖なる神、イエス・キリストの父なる神の臨在こそ、唯一の救いであります。この神を賛美することによって、一瞬にして世界は変わります。自分が好きになるのであります。神に祈祷を献げます。祈ります。
【祈り】
  主イエス・キリストの父なる神、み名を賛美します。「主を求める人よ、心に喜びを抱き、主のみ力を尋ね求め、常に御顔を求めよ」(歴代上16:10から11)。魅力あるこの市川の地において、御顔を求めて礼拝に参加することが許されました。感謝であります。「一瞬も、一生も美しく」。こういう一年でありますように願います。そのために、「我らの喜び、安きは主にあり」と、キリストの臨在を常に受けて、家族と教会の交わりが平和でありますように祈ります。病者、困窮者に慰めを与えてください。また慰めを運ぶ器となって、この一年を過ごさせてください。み名によって祈ります。
アーメン!!

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2008年12月25日

12/21クリスマス礼拝

◎先週の礼拝◎
  クリスマス礼拝。3年前に洗礼を受けた和子姉と根井姉が、ルカ2章8〜12節を朗読し4本目のローソクに点火した。初参加のブロストさん(ドイツ人)ら礼拝53名(子供10名)。
  礼拝後、家庭の事情で群馬県伊勢崎(令美姉の実家)に移られる基兄が挨拶。「いつか戻ってきたいし時々通ってきます」と。
  当日の福沢満雄牧師の宣教要旨は、以下の通り。

◎「ハレルヤ!主をほめよ」(ピリピ2章1〜18節)◎
  11月の末、突然、腰の激痛に襲われ、結婚以来初めて入院した。息をするのも痛く、夜中の3時頃まで耐えたが、ついに我慢できず、緊急ベルを押してしまった。「イエス様の十字架の苦しみを思って」などと簡単に言えないことを悟った。
  人間は生まれると同時に、二つの「闇」を持っている。一つは「死の暗闇」であり、二つは「罪の闇」である。誰でも、必ずこの二つの闇に直面する。そして、それらの闇を克服する者が、本当の勝利者となるのである。十字架の死にまで従順に従ったイエス様によって、死の闇はすでに敗者となった。
  私たちがイエス様を心の中にお迎えする時、イエス様は私たちのすべての罪の闇を解き放って下さる。ただ「どうぞ私の心の中にお入りください」「あなたこそ私の主」と賛美し、「残りの生涯を世の光として用いて下さい」と祈ればよい。

◎「イブ燭火礼拝」と「愛餐会」も祝福のうちに!◎
  24日(水)夕方5時〜。ローソクの灯の中での短い礼拝後、キャロリング、愛餐会へ。豊かなご馳走と余興で楽しい時が流れた。出席32名。
posted by seibou at 00:00| 週報より (日曜礼拝 10:30〜) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月07日

12月7日藤崎信牧師「その日・大いなるその日」イザヤ書27章1節〜13節

【序】
  12月になりました。わたしにとりまして、聖望キリスト教会において、本年、最後の主日礼拝となりました。しかし、わたしに取りまして、最後は最初であります。数名による最初の聖望キリスト教会の礼拝を思います。そして、天の国での最初の礼拝に憧れるものであります。「ハレルヤ。天において主を賛美せよ」(詩篇148:1)。
【1】
  主によって、新しい賛美が与えられることを希望します。「ハレルヤ。聖所で、神を賛美せよ」(詩篇150:1)。わたしにとって、今日の礼拝は、今申しましたように聖望キリスト教会における今年最後の礼拝日であります。過去を感謝し、未来を展望し、そして上を見上げて、心から神のみ名をほめたたえましょう。後を見、前を見、そして上を見上げましょう。
  一昨日、雨を突いて夕刻、久美愛教会の婦人が尋ねてきました。「一枝先生の元気なお顔を見て安心しました」と申されました。それほど一枝さんは弱っております。本当にやせ細っています。しかし、わたしにとって弱い一枝さんと共にいるくらい至福のときは、ございません。聖書に親しみ、共に祈り、み名を賛美しております。今日は結婚記念日であります。神の見える祝福を感謝します。
  したがって、何の心配もありません。わたしたちは、「万事が益となるように共に働く」(ロマ8:28)と言う未来に向けて生かされております。今日、一枝姉妹は皆さんとご一緒に礼拝を守りたいと、しきりに願っておりましたが、とてもかないません。皆様によろしくとのことであります。離れて祈りにおいて、心において、交わりたいと願います。そのように教会から離れている人々に、上からの慰めを祈ります。
【2】
  今日は前回に続きまして、イザヤ書27章を輪読いたしました。27章は、いろいろな断片が集められているようであります。わたしは、「その日」にポイントを定めて説教をさせていただきたい、と思っております。「その日、主は強い剣をもって逃げる蛇レビヤタン、曲がりくねったレビヤタンを罰し、また海にいる竜を殺される」(1)。
  レビヤタンは海の怪物であります。一般に「逃げる蛇レビヤタン」はアッシリヤ、「曲がりくねる蛇レビヤタン」はバビロニア、「海にいる竜」はエジプトと理解されています(旧約略解)。神の審判が宇宙的である、と前章の結論として付け加えられます。2節から6節は、「主のぶどう畑」であります。
  神はイスラエルを「夜も昼も見守る」(3)とあります。これは5章5節から6節で述べられた神の怒りが過ぎ去ったことを意味し、「わたしはもはや憤ってはいない」(4)と、はっきり宣言されています。「茨とおどろをもって戦いを挑むもの」は外敵ではなく、イスラエルにあって神に逆らう者のことであります。「焼き尽くす」とあります。
【3】
  だからこそ「そうではなく、わたしと和解するがよい」(5)と、神との和解が求められております。イスラエルが神と和解し、悔い改めて神に従うものとなることにより、6節に描かれた状態に「時が来れば」なるのであります。見事なぶどう畑になるかどうかは、イスラエル自身にかかっておるということでしょうか。
  9節から11節までは「贖い」であります。「主は、彼らを撃ったように撃たれたか」(7)。神がアッシリアを撃った様にイスラエルを撃たれるのか。そうではない。捕囚という「追放」(8)と言う経験を通して、「贖われた」(9)のであります。刑罰を経験し、神と和解することにより、その咎が贖われ、罪が除かれ、その結果、主に立ち返り、他の神々を信仰することがなくなります(9)。
  10節の「城壁に囲まれた都は孤立し」とあるのは、和解の機会が与えられたのに関わらず(5)、「城壁に囲まれた都」の人々はそれを理解することは出来なかった。「全く分別のない民だ」(11)。それゆえ、神は「憐れみをかけず」災いを下す。この都がどこかは不明ですが、サマリヤのことでしょうか。
【4】
  わたしは第2区分の7節から11節を「主の刑罰とイスラエルの悔い改めの希望」と言うふうに受け止めたいと思います。終わりの12節から13節は、「イスラエルの回復」であります。終わりの日に捕囚で連れ去られたイスラエルの人々が神によって、「ひとりびとり拾い集められ」(12)、エルサレムで神を礼拝することが明るく告げられております。
  これは24章から27章の「イザヤの黙示録」の結びをなす言葉であります。「その日が来ると大きな角笛が吹き鳴らされる」(13)。わたしはこの言葉「角笛」に促されて、今日ご一緒に読んだ所を三つの角笛として吹き鳴らしたいと思います。一笛は「その日」であり、二笛は「悔い改め(和解)の希望」。三笛は「礼拝する未来」であります。「その日」「希望」そして「礼拝」と言う順序で笛を鳴らします。
  第一笛は「その日」を知るものとなることであります。わたしたちの救いの保証は自分の側には何もありません。ただひたすら信じて従うこと以外に、どこにも確かさはありません。キリスト者が常に忘れてはならないことは、自分は弱い罪人であると言うことであります。罪を知らないと言うことも、実は罪のせいであります。
【5】
  「球根の中には、花が秘められ、さなぎの中から、命羽ばたく、寒い冬の日春はめざめる。その日、その時を、ただ神が知る。命の終わりは命の始め、恐れは信仰に、死は復活に、ついに変えられる、永遠の朝、その日その時をただ神が知る」(賛美歌575番)。「その日」を、わたしたちは、知ることは出来ませんが、神がご存知であることを信じて歩ませていただきましょう。
  第二笛は、「希望」であります。今日、イザヤ書によって「わたしと和解するがよい」とのみ声に接したのであります。第二コリントには、「神はキリストを通してわたしたちと和解させ」(2コリント5:18)とあります。神様との和解を信じて、悔い改めるのであります。
  信じて悔い改め(方向転換)るのであります。「恵みを安価なものにしてはなりません」。めぐみを知って、悔い改める。その順序を正しく知って、日々悔い改めて、赦しの喜びを新鮮にさせていただきましょう。自分の罪を知るならば、罪からの唯一の救い主であるイエス・キリストに無関心ではおられません。
【6】
  「悔い改めの希望」。これが第二笛であります。第三笛は、「礼拝すると言う未来」であります。詩篇72編に「すべての王が彼の前にひれ伏し、すべての国が彼に仕えますように」(72:11)と、歌われております。マタイの福音書には、学者たちが東の方からエルサレムに来て、「拝みにきた」(マタイ2:2)とあります。象徴的な出来事であります。
  今日は第二アドベントであります。第三アドベント・第四アドベント、と星に導かれて、礼拝をする未来へと、世界が、この国が、そしてわたしたちが導かれるように祈るものであります。聖望キリスト教会から天に召された人々と、礼拝を共にすると言う未来へと、喜びを一つにしたいと思います。
  終わりになりましたが、今日ご一緒に読んだテキストを更に一点に絞り、それをメッセージにしたい、と思っております。「その日」とは、イエス・キリストに出会う日であります。その日こそ、大いなる日であります。「疲れた人は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ11:28)。
【7】
  唯一つの偉大さとは、自分の利益を求めない愛であります。何事も、愛にとって困難なものではありません。「休ませてあげよう」とは、静かにしていることではなく、愛に生きることであります。降誕節を迎えるにあたり、はっきり言える事はイエス・キリストが、わたしたちが目指す人間像であります。「わが愛におれ」(ヨハネ15:9)。そうしたいと思います。
  主イエスは、「信仰の創始者であり、完成者」であります(ヘブライ12:2)が、また「わたしは柔和で謙遜の者」(マタイ11:21)だからと、言われます。柔和であることは、相手に対して優しさ、思いやりを持つことであります。もし親子の間にこの柔和ということがあれば、親子の対立は起こらないでしょう。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます」(使徒6:31)。主イエスの柔和さにあずかっていかましょう。
  また謙遜とは神の前に、黙って服従することであります。犠牲や苦痛があっても、それが主の御心であるならば、それに耐え、黙って従うのをむしろ喜びとする、それは真に神の前にへりくだった者のみがなしうる業であります。「我に来たれ」。天のキリストに抱かれる「その日」。それを大きな日としたいと思います。
【結】
  クリスマスを間じかにしたこのアドベントの日、「疲れたもの我に来たれ」。この真実な声を聞きましょう。わたしはモーツァルトではないですが、魔笛を吹き鳴らしましたが、わたしは、イエスのくびきを負って、柔和にして心のへりくだったものとなって、真の平安を得たいものと、心から願うものであります。神に祈祷を献げます。祈ります。
【祈り】
  主イエス・キリストの父なる神、み名を賛美します。現代人は、みな疲れています。わたしも説教の重荷を負って、あえいでいる一人であります。どうかみ声を聞いて、生きる者にならせてください。今日を「その日」として見えるものでなく、見えないものに目を注がしてください。そして、愛に生き、み言葉を運ぶものとなって、教会を建てる一員にならせてください。イエスと向き合い、そこから流れ出る希望に、愛に、そして命に与らしてください。この祈りを主のみ名を通してみ前におささげします。
アーメン!!
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2008年11月02日

11月2日藤崎信師「どこまでも主に信頼せよ」イザヤ書26:1〜21

「どこまでも主に信頼せよ」(イザヤ書26:1節〜21節)

【1】
  10月2日(木)、加須市議会で一市三町の合併を決議した。民意を聞かない決議に問題を感じています。10月25日(土)、愛の泉63周年の記念日、長い時間前に座らせられて腰が痛くなる。翌、26日腰痛を押して姉(恵子さん)と共に弓町本郷教会に出席。翌27日教かい事業協力会。やっと教団傘下に入られたので、使命を果たしたのでこの仕事から離れたい。
  10月29日(水)、久美学園評議委員会。入札で物価高で10社のうち合致するものなし」この日、予算を追加して、「恵み寮」の建築を五億七千万円で決める。来年7月に完成。これを機に評議委員会を辞めたい、と思っています。教団の関係も、その他のこともやめて、更に自由に生きたいと、自ずからに期待しています。
  恩師鈴木俊郎先生が「打って出なさい」とよく言われましたが、コツコツやってきたことから飛躍して、躍り出たいと思っております。しかし、そんなことは出来るでしょうか、「長生きは生の芸術」です。素朴な福音に立ち帰って、単純な神の栄光を現す生活に入って参りたい、と願っております。ご加祷を乞います。
【2】
  今日は、前回に続きましてイザヤ書26章1節〜21節を輪読いたしました。イザヤの黙示録(24章〜27章)と言うその一部分であります。自分にとってキリストとは何か。覆いを取ってそれを少しでも明瞭にすることができれば幸いであります。
  わたしは、「キリスト教は喜びの宗教」である、と思っています。イザヤ書26章は「信頼と賛美と瞑想の詩篇である」(G・Eライト)とあります。もし詩篇であるならば、わたしたちはそこから慰めと希望を受け取ることが出来ます。ルターは、「信仰の消息を知りたいと思うなら詩篇を読め」と、勧めました。ありがたいことであります。
  1節〜6節において、「信頼」を学び、7節〜21節において「希望」と「瞑想」について学びを深くしたいと思っております。「その日には、ユダの地でこの歌がうたわれる」(1)。その日とは、主がユダの人民に勝利を与えたもう日であります。「我らには堅固な都がある。救いのために、城壁とほう塁が築かれた」(1)。
【3】
  エルサレムを真に防護するものは、物質的石垣だけでなく、主の超自然的な救いであります。「あなたは平和を守られる、あなたに信頼するゆえに」(3)とあります。主に信頼する者に、主は平安を与えたまいます。
  8月に、わたしはあるところで、「人生の始めと終わり」という説教をいたしました。人生の始めの前にすでに御心があり、その終わりとその先にも祝福があります。それが説教の主旨であります。人生というその短い歴史を導くばかりでなく、それを超えて主の慈しみがあります。信頼するとは、その限りなき恵みに対して信頼すると言うことであります。
  「どこまでも主に信頼せよ。主こそはとこしえの岩」(4)文語訳聖書には、「汝ら、常盤にエホバにより頼め」とあります。「とこしえの岩」とは、永遠に変わることのない「よりどころ」を意味します。よりどころがしっかりしています。信頼し、平安を得て、とこしえの命を喜び、賛美いたしましょう。
【4】
  7節以下は、神が人々になしたもうことが記されています。「神に従う者は平らかです」(7)。「主よ、わたしたちはあなたを待ち望みます」(8)。ローマの信徒への手紙5章に「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(5:4)とあります。練達とは複雑な心でもなく、神の恵みを知り、神に自分を託することにおいて熟達した人のことであります。
  「まっすぐにされた道」(7)に、自分を託することが信頼であります。9節に、「あなたの裁きが地に行われるとき、世界に住む人びとは正しさを学ぶでしょう」。確かに学ぶ人は多いと思いますが、学ばない人も少なくないのであります。「主よ、平和をお授けください。わたしたちのすべての業を成し遂げてくださるのはあなたです」(12)。
  平和はシャロームです。シャロームとは、満ち満たされる喜び、活動の姿をさします。神の平和が、すべての業を成し遂げてくださいます。「マリアは男の子を生む。その子をインマヌエルと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1:21)。時満ちてみ子を通して、「神共にいます」が実現します。実に、「すべての業を成し遂げてくださるのはあなたです」と、わたしたちは賛美したいと思います。
【5】
  「主よ、苦難に襲われると、人々はあなたを求めます。あなたの懲らしめが彼らに臨むと彼らはまじないを唱えます」(16)。実に不思議であります。神を求めながらまた、まじないを求めます。これは異邦人だけでなく、イスラエルの人々もそうでありました。「しかし、それは風を生むようなものでした」(18)と、反省しています。
  そのように、信頼する人は、反省し、失敗を認めることにやぶさかではありません。一昨日の朝刊で、「空自トップ更迭へ」とありました。航空自衛隊トップの田母神俊雄・航空幕僚長が「わが国が侵略国家だったと言うのは濡れ衣」と言う論文のゆえに、浜田防衛省は、31日更迭する意向を表明したのであります。
勝った国の人が終戦と言います。これが正しいのであります。負けた国は当然「敗戦」と言うべきであります。しかし、戦後すぐに終戦と言う言葉が使われたのであります。勝った国と同じ言葉を用いて負けたことを認めない。真に信頼するものを持たない人は、常に言い訳をし、び縫策を行じます。しかし、それでは破れがはなばなしくなるだけであります。
【6】
  16節〜19節では、神との会話が続いております。祈りにおける会話と言うものでありましょう。ユダの民は、子を産む女性のように苦しむが、何も生まないようなものである、と歌われています。しかし、ここで突然歓喜に満ちた叫びが19節に上がり、死者の復活が述べられております。「あなたの死者が命を得、わたしのしかばねが立ち上がりますように」(19)。
この死者の復活は、社会的でおそらく国民の回復を考えています(エゼキエル37章参照)が、同時にまた個人的で、過去の人々が目覚めて、新たなる地のもろもろの喜びに与り得るものであることを示しております。これは旧約聖書では珍しく、中間期に至って最も鮮やかに開花する(ダニエル書12:2参照)概念であります。
この詩の特異な点は、敵の手によって殺された者の復活と言う全く新しい方法で神の救いが示されるようにと、祈っていることであります。信頼する者は、全く新しい方法で救いの示されることを祈ります。イエス・キリストは「わたしは天から降ってきた生きたパンであり、このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(ヨハネ6:51)。このように全く新しい救いの方法が示されます。
【7】
  更に、その先を見ると、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ6:54)。これは聖餐がわたしたちの終末、未来の保証であることを言うものであります。主が甦りの保証であります。
  「塵の中に住もう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます」。「命を与えるのは霊である」(ヨハネ6:63)。わたしたちは、キリストの実体を持たねばなりません。洗礼から聖餐へと歩み、聖餐にたびたび与ることによって、真のキリスト者となり、ついに主と同じ像に化せられるのであります。
  瞑想すべきことは、露が植物を生かすように、神の霊の露が、光の露がわたしたちを生かす、と言うことであります。このキリスト教の秘儀を持って、わたしは世に打って出たい、と思っております。心だけでなく、聖餐を通してキリストの体を、我がうちにあらしめる、そのことにたいして深く、瞑想していかねばならぬと、思っています。
【結】
  今日はいろいろなことを申し上げましたが、「神の愛が、あるべきものにならしめる」。これが、今日の結論であります。どなたにもちゃんと道が備えられています。ですから、どこまでも主に信頼していきましょう。それがイザヤ書のメッセージではないかと、わたしは思います。神に祈祷を献げます。祈ります。
【祈り】
  主イエス・キリストの父なる神、み名をさんびします。「わたしの骨は恐れ、わたしの魂は恐れおののいています。主よいつまでなのでしょう」(詩篇6:4)。わたしたちは深い淵で嘆いております。しかし「主はわたしの祈りを受け入れてくださる」(詩篇6:10)。神よ、祈りにおいてあなたはあなたご自身の恵みとわたしたちを一つにしてくださいます。感謝であります。今、一言の祈りを献げるすべての人の祈りを、お聞きあげてください。み名によって祈ります。
アーメン!!
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