『見よ、ダマスコは都の面影を失う』イザヤ書17章1節〜14節
【序】
「星は招く」。真冬の空を仰いで、永遠を思う。神に祈り、部屋に入りペンを握る。「はや二月」となる。皆さんいかがお暮らしですか。お伺い申し上げます。「勇気こそ地の塩なれや梅真白」(中村草田男)。
【1】
教会は、「灰の水曜日」(四旬節)を迎えようとしています。政界は、「つなぎ国会」で、自民と民主が離れようとしています。食糧界は中国の「毒入り餃子」で大変であります。わが家では、「眠られぬ夜」を熱を入れて語り合う。俊さん(孫)は、突然「僕にもある。試合に出る前の晩は嬉しくて眠られない」と、言います。へんてこな家庭であります。
一月の締めくくりが出来なくて、「それでいいのか」という思いが、わたしにはあります。しかし、「神は招く、愛は結ぶ」であります。キリストが用意してくださる礼拝で皆さんの笑顔に接することが慰めであります。「神に栄光、すべては勝利、アーメン」(升富安左衛門)と、和したいと願います。
今朝は、前回に続きまして、皆さんと共にイザヤ書17章を読ませていただきました。「前回に続く」と言うことは、どんなに途切れても、「神の言葉は続く」(マタイ24:35)と言うことであります。今朝は趣旨を変えて柔軟に、「トランク」をテーマに話したいと考えております。よろしくお願いします。
【2】
初めに、「父のトランク」について言及します。子供のころ、上野の駅で父が大きな皮のトランクを持っているのを想い出しました。「力があるなあ」と言う感懐であります。次に、「イザヤ書のトランク」。そして、最後に「福音書のトランク」。このような順序で説教をさせていただきます。上手に聴いていただけるとありがたいと思います。
「パンドラの箱」と言う神話があります。あけると不幸が飛び出すと言う話であります。トランクをあけると、「何が飛び出す」のでしょうか。「父のトランク」とは、2006年ノーベル文学賞を受けた、オルハン・パムクが受賞記念の折の講演会での題名であります。トルコ人として始めての受賞であります。
「父のトランク」。何が入っているか。開けたら何が出てくるか、オルハン・パムクは「中途半端な作品やノートばかりである」と語るのであります。父を厳正に批判しながら、父がいかに、わたしを過度まで尊敬し、愛していたか、父がこの受賞式にいてくれたら、どんなによかったか、と言う内容であります。2002年に父は死亡しております。
【3】
その講演の中で、「小説が最高の芸術」であると語っております。わたしが感じた一、二のことを述べると次のようになります。「作家とは誰でも知っているけれど、知っていることを知らないことのように語るものです」と、言っております。イスタンブールの通りや、橋や、人々、皆知っていることであります。それを空想した世界で語る、と言うことであります。
そうすると、「わたしの空想の中や、わたしの本の中でなく、勝手に生き始める」というのであります。「針で井戸を掘るように忍耐強く空想して、築いたこの世界は、わたしにその時、何よりも現実のように思います」。パムクは、トランクを開いて、「わたしの子どもの頃、青年期の初期の頃、父は幸せでないことがわかる」と言うのであります。
このような、「屈辱、抑圧、怒りと言った暗い素材によって、わたしの小説は書かれるのです」。「小説と言う芸術は、必死に隠したいと思っていた自分の恥を他人と分かち合うことが、わたしたちを自由に解放することを、わたしに教えてくれた」と、語るのであります。この演説は父の失った面影を密かに、しかも豊かに語っております。
【4】
次に、「イザヤのトランク」について語ります。特に17章のトランクであります。17章は「断片的予言」(ライト)と言われております。「開ける」と、「絶える」(3)「失う、ダマスコは、王国を失う」と、「廃虚となる」「荒れ果てた地となる」(9)、「破滅が襲う」(14)、「彼らはいなくなる」開けると、そのように、「破滅、破滅」がぞろぞろ出てまいります。
1〜3節はダマスコについてであります。「見よ、ダマスコは、都の面影を失い、瓦礫の山となる」(1)。ダマスコは立派な美しい都だったのでしょう。その姿(面影)を失うことは、印象的な言葉であります。4節以下11節までは、エフライムのことであります。「その日」(4)とありますが、ダマスコの滅亡と同時に、「その日が来れば、ヤコブの力は弱まり、その肥えた肉はやせ衰える」(4)、肉体的比喩です。
5節、6節は植物の比喩です。「残るものは少ない」と言います。ヤコブ(つまりエフライム)の滅亡であります。エフライムの滅びは、「岩に心を留めていない」(10)と言う偶像礼拝にあります。7節8節は研究者によると挿入句であると言われますが、「その日、その目をイスラエルの聖なる方に注ぐ」とあります。審判を経験したものは、戻ってくる、と言うことであります。万物の創造主は、聖なる方です。これがイザヤの特徴であります。
【5】
12節「災いだ、多くの民がどよめく、どよめく海のように」とあります。多くの民も、国々も、主にとって全く無力な存在であることを創造神話的イメージをもって表現しています。例えば詩篇104編に、「雲を御自分のための車とし、風の翼に乗って行き巡り」(5)とあります。
そして、「あなたが叱咤すると散って行き」(7)とあります。このような創造神話的イメージを用います。そして「夕べには、見よ、破滅が襲い、夜の明ける前に消えうせる。これがわれわれを強奪するものの運命だ」(14)、で結ばれています。イザヤ書37章の36節に、次のような記録があります。
「主のみ使いが現れ、アッシリヤの陣営で18万5千を撃った。朝早く起きてみると、彼らはみな死体となっていた」。このことを連想しますと、この場合「略奪する者」、「強奪する者」はアッシリヤとなります。また12節の「多くの民」「国々」もアッシリヤの多国籍軍と理解できます。従って12節から14節は、アッシリヤの破滅となります。
【6】
イザヤ書(特に17章)のトランクを開けてみたら、「破滅、破滅」が出てきますが、その中で、「聖なる方に目を注ぐ」とあります。預言者は何よりも時代に対して語るものであります。シリヤ・エフライム戦争についてイザヤは言及します。また隣国(シリヤその首都ダマスコ)と大国(アッシリヤ)の運命について述べています。
預言者は、しばしば審判を語ります。しかし、イザヤ書にはメシヤ予言が数回述べられています。審判は多く語られますが、よく読むと、預言者は、審判の前に救済を語ると言うのが、真の預言者であります。万物の創造者、イスラエルの聖なる方は、国を祝福し、救うお方であります。
「その日には、イスラエルは、エジプトとアッシリヤと共に、世界を祝福する第三のものとなるであろう」(イザヤ書19:24)とあります。そして、「祝福されよ、わが手の業なるアッシリヤ」(25)とあります。わたしたちも審判の前に救済を語るものでありたいと、願います。「先行する恵み」を思い感謝しましょう。
【7】
最後の「福音書のトランク」について、語る時間がなくなりました。福音書のトランクを開けると、いろいろな物が出てきます。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネであります。出てくるものを一語で、要約すると「見よ、この人なり」(ヨハネ19:5)であります。由木康先生の言葉で申し上げると、次のようになります。「まぶねの中にうぶごえ上げ」(賛美歌121番)とは、ルカの福音書です。
「食する暇も打ち忘れ、友なき人の友となりて」この人を見よ、エッケ・ホモ!!「すべてのものを与えし末、死のほか何も報いられず、十字架の上に上げられつつ敵を許ししこの人を見よ」エッケ・ホモ!!であります。9・11貿易センタービルが破壊され、ニューヨークも都の面影を失ったのであります。テロを打てと皆が一致しました。
イザヤは神殿でわたしは神を見た、滅びると叫びました。その時天使が、「火鉢で取った炭火」(6:6)で唇に触れ「咎が取り去られ罪は赦されます」と、贖罪を経験します。この火鉢の炭火こそ、「敵を愛せよ」との主のおことばであります。敵との共存、審判の前に救済を告げる寛容さが、この時代には求められていると思います。最初に声かける方は神であります。各国が、神の声を聞きますように。
【結】
「神のトランク」。開ければ、「信仰・希望・愛」が詰まっているのが一目瞭然であります。その中には面影を失ったわたしの名があるのであります。わたしたちの家庭は模範的な家庭ではありません。「救われた者の家庭」であります。救いたもう恵みの神を、心を高く挙げて賛美しましょう。神に祈祷を献げます。
【祈り】
主イエス・キリストの父なる神、み名をさんびします。個人個人のトランクを開けねばなりません。自分の大切にしているものが、浦島太郎の煙りとなって消え失せます。しかし、主がお与えになった「救いの面影」は消え失せることはありません。あなたは「倒れようとする人を、一人びとりを支え、うずくまっている人を起こしてくださいます」(詩篇145:14)。困難の中にいる人を、その只中で支え、お救いください。み名によって祈ります。アーメン!!
posted by seibou at 13:14|
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